水の精 3
中原成澄が語った話はこうである──
実は昨今、京師で奇怪な事件が続いている。
いつからか検非遺使庁内では〈水の精の怪異〉と囁かれるようになった。
夜半、出歩いている貴人が何人も妖しい死に様で発見されたのだ。その数、既に三人。
皆、顔が撫でられたように削がれていて、死体の傍らには必ず縄が結んだ形のまま落ちている……
「その縄がぐっしょりと濡れていてな」
「それで? それが何故〈水の精〉などと呼ばれるのだ?」
怪訝そうに首を傾げた婆沙丸を見て成澄はニヤッとした。
「おまえもわからないか? うん、実は俺も初めてこの話を聞いた時はさっぱり要領を得なかった。歌い騒ぐのは得意でも書物には暗いからな」
豪快に笑った後で教えてくれた。
「実は最近書かれたという物語集があってな。『今昔物語』とか言うのだ。秘本中の秘本だが識者の間で人気を博している。俺は今回のことがあって別当の命で読まされたのだ」 ※別当=最高長官
熊の蛮絵は検非遺使の印。前をはだけた着方はともかく、精悍な風貌に黒摺りの装束がよく似合っている。そんな成澄がいつになく神妙な口調で先を続ける。
「その物語集に〈水の精〉の話が載っている。巻二七の五話目。時は陽成院の御代、冷泉院の屋敷は荒れ果てて〈水の精〉が出没しては悪さをすると噂になった。
その悪さとは、寝ている人の顔を撫でるというもの。
まあ、そのくらいなら見過ごされたろうが、この〈水の精〉、貴人を殺めるに及んで遂に搦め取られた。
その際、後ろ手に縛られながら水を所望したので盥ごと水を与えたところ──
頭から盥の中に飛び込んで跡形もなく消えたしまったと!
盥には唯一、縄だけが、さっきまで〈水の精〉を縛ってあったそのままの形でプカプカ浮いていたそうな……」
成澄はブルッと身震いしてみせた。
「以来、〈水の精〉の行方はヨウとして知れない。その姿を見た者もいない。ところが、今回こうも繰り返される面妖な事柄──
顔を撫で削ぐのといい、結んだままの縄といい、どれもかつての〈水の精〉の話に通じるではないか! 貴人ばかり狙われるというのも然り」
松明を持っていない方の手でちょっと烏帽子に触れてから成澄は言った。これがこの男の癖なのだ。
「まあ、そういうわけだ。この話を聞いて狂乱丸も青褪めていたぞ。おまえが〈水の精〉に襲われては大変だと俺に縋って、すぐ連れ帰ってくれと泣くのだ。フフ、日頃強がっていても、可愛い奴」
「馬鹿馬鹿しい」
婆沙丸は取り合わなかった。
「俺のことなら放っておいてくれ」
「それはないだろう、婆沙よ。狂乱丸は元より俺だって心底おまえの身を案じて──」
「だから、それが無用の心配だと言うのさ! そら、今あんた自身の口で言ったろ? その物怪に狙われるのは貴人だけだと。俺は貴人ではない」
婆沙丸は薄縹の地に蜻蛉の模様も鮮やかな摺衣の袖を振って、
「ほうら! 誰が見たって俺は田楽師! それ以外の何に見える?」
「なるほど。だがな──」
ここで橋に立っていた二人は同時に口を噤んだ。
森閑とした京の闇を裂いて悲鳴が響き渡った。
「キャーーーー!」
「な、何だ!?」
「向こう……〈あははの辻〉の辺りだぞ?」