白と赤 25
コツン……
縁の方で音がした。夢心地で目を開ける。
小石? いや、違う。石よりもやわらかい。
コツン……
まただ。
雪の音か? 違う。雪よりも暖かい――
「?」
狂乱丸は夜具から起き上がった。
襖を開けて縁へ出ると、吹きすさぶ雪の中に人が立っていた。
笠に黒い領布の異形の姿。一目でわかった。あれは、愛しい娘。
「サン!?」
「どうした、サン? こんな時間、しかも、この雪の中――」
「狂乱丸様、お願いがございます」
「なんだ? 言ってみろ」
「どうか、私と一緒においでくださいませ」
「え?」
「何も訊かず、私と同道していただきたいのです。どうぞ、私を信じて」
「信じるも何も――」
次の瞬間、もう狂乱丸は雪の上に飛び降りていた。
「いいとも!」
これにはむしろ娘の方が呆気に取られた。
「は、早すぎます。またそのように――わけも聞かず」
「何も訊くなと言ったではないか」
「しかも、裸足で――」
領布を震わせてサンは笑った。いや、泣いている?
「本当に困った御方じゃ。さあ、これを」
縁先に履物を探したが、見当たらない。雪が埋めてしまったか? 娘は自分の草鞋を脱ぐと差し出した。
「この先に網代車が止めてあります。とにかく、そこまでこれで」
「よし、行こう!」
「あ」
狂乱丸は草鞋を突っかけるとすばやく娘を背に負ぶった。
「履物が一足では、こうするほかないだろう?」
戸惑いながらも、サンは別のことにハッとした。
「熱が……熱がおありですね、狂乱丸様? お風邪を召しておられる?」
「ハハハ、おまえの体が冷えているのだろう?」
サクサクと踏み分ける足跡を雪がすぐ消してしまった。
夢を見ていた?
何処から何処までが夢なのか、夢と夢との境目が判然としない。
狂乱丸はまた揺り起こされた。
「狂乱丸様、狂乱丸様……」
「?」
眼前に愛しい娘がちゃんといる。
では、やはり、夢ではなかったのだ。
「さあ、ここからは私がお連れいたします」
車の簾を跳ね上げると、そこは二色の世界だった。
白と黒。
舞い狂う雪と闇。それ以外、全く視界が利かない。
何処へ? とは田楽師は訊かなかった。
それよりも履物の心配をした。
「また負ぶってやるぞ」
「大丈夫でございます。もうすぐそこ、この岡を登れば行き着けます。それに――お忘れですか?」
娘は袿の裾を揺らす。
「ほら、私は足先まで厚く布をまいておりますから。平気です」
「岡と言ったな?」
車から降りた狂乱丸。緩やかな勾配を足の裏に感じて周囲を見回した。だが雪が激しくて何も見えない。
「どうぞ、お手を」
差し出されたその手にも布が巻かれている。
そのまま暫く行くと、突然、闇の色が消えた。
ただ白いだけの世界――純白の空間に入っていた。
「いつのまに……?」
「どうぞ」
あれほど吹き狂っていた雪も掻き消えている。
やはり夢を見ているのだろうか?
そこは全て白い室だった。
前も後ろも天井も床も、白、白、白、白。
中央に白い夜具が敷いてある。
だが、狂乱丸が見ることができたのはここまで。
娘が言った。
「御目を瞑ってくださいませんか?」
「え?」
「サンは貴方様には……貴方様だけにはこの醜い異形の体を見られたくないのです」
「いいとも!」
また一言で狂乱丸は諾った。
「言ったろう? 俺はサンの嫌がることなど望まないと。容――外側などどうでもいい。おまえの厭う外見など見たいものか」
即座に目を閉じている。
「こうやって――目を瞑ると、サンの心がはっきりと見えるよ」
火照ったため息を漏らす。
「サンの暖かで美しい心が」
「美しい……心」
娘の声が震える。
「そのように伝わりますか?」
サンはぎゅっと抱きついた。
「貴方様だけには、せめて心は……心だけでも美しいと思われたい!」
ああ、神様!
我が里の族の神様、ありがとうございます!
「外側が醜いのは言うまでもないのですが、今となっては内側も醜い私です」
「サン?」
「でも、貴方様にだけは美しい心のサンとして最後まで憶えていて欲しい。今となってはそれだけがサンの願いです」
言われたままに硬く目を閉じた狂乱丸の手に盃を握らせる。
「温まります。どうぞ、一息にお飲みください」
「うむ?」
「その後は私が……暖めて差し上げましょう」
娘の肌を滑る衣の音。
だが、狂乱丸は誓ったとおり決して目を開けなかった。
白い闇。
こんなに熱く柔らかな闇を知らない。
その白い闇はゆっくりと狂乱丸の身体を覆い尽くして行った――




