白と赤 15 ★
「ほう? これは面白い……」
身を乗り出すイチトイ女房。
並んだ三枚の絵を指し示しながら成澄が解説した。
「御覧になっておられる、向かって左より、一応我々は〈白い舞人〉〈緑に白〉〈馬と娘〉と呼んでいます。一枚目は大体意味はわかります。この代理の陰陽師が言うには――ヤマトタケルとミズヤ姫の婚礼の場面だろうと。二枚目と三枚目については全くわからない」
「私にわかるのは三枚目くらいです」
「えええ!」
あまりにもあっさり言った女房に検非違使が大声を上げた。
「そんなに驚かれなくとも。そちらの陰陽師様も察しておられるのでは?」
イチトイは桧扇でその部分を指し示した。
「この光は十字に見える。十字の形は西方の神の印です」
確認するように巷の陰陽師を見据えて、
「いかがでしょう? 陰陽師様?」
成澄も振り返った。
「そうなのか、有雪?」
「確かに。まあ、俺もそれについては考えたさ。イテテ……」
まだ疼く頭を摩りながらの有雪は頷いた。
「唐より遥か先、絹の道を越えて至る西方の国々……そこに住する人間が敬う神の印は十字だと何かの書物で読んだことがある。だが、繋がりが見えぬ。もっと明白な答えが見つからぬ限り中途半端なことは言えぬ」
「繋がり?」
「これを描いてくれた仏師が言っていたのです。これら全ての絵柄は繋がっているのではないかと」
絵を見せるのに乗り気ではなかった顰め面の陰陽師に代わって検非遺使尉が説明した。
「無論、一つ一つ意味はあるのでしょうが、それ以上に、共通の〝何か〟がこれらの三枚の光景の内に隠されているにちがいないと仏師は言うのです」
「なるほど。三枚全部が、切り離せない、謎を解く〈道標〉というわけですね? お噂では、帝の陰陽師様は〈夢〉としてそちらの陰陽師様に伝えられたとか。それが事実なら、これらは全て、布留様が命に代えて残した大切な光景ですものねえ……」
「お言葉ですが、布留佳樹はまだ死んではおりませんよ」
キッパリと有雪が言った。
「これは失礼を。流行り病で亡くなったとお聞きしたのですが」
「意識がなくて身動きできないのは事実ですが、生きております」
「それに流行り病というのも違います」
検非遺使も割り込んだ。
「布留殿は〈呪返し〉にあったのです」
「成澄――」
「恐ろしいことです! それも、どうやら、〈血染めの兎歩〉を行なっている連中の仕業と私は睨んでいます。悪党どもは自分達の正体を嗅ぎつけた布留殿を抹殺しようとしたのです」
「おほほほほ……ほほほほ……」
突如、絹を裂くが如き甲高い声が局に響き渡った。
「これは失礼。恐れを知らぬ天下の検非遺使様が真顔でおっしゃるので、つい可笑しくて……」
女房は唐衣を纏った身をくねらせた。
「よもや呪詛などを本気で信じておられるのではないでしょう、判官様?」
桧扇の陰で吐き捨てる。
「馬鹿馬鹿しい! あんなものは女子供の戯言じゃ」
剛毅な検非違使は腰を抜かすほど驚いていた。
「な、何とおっしゃられた、女房殿?」
「意外ですか? でも事実です。尤もこんなこと、人前では申しませんが」
イチトイは有雪に視線を移した。
「博学の巷の陰陽師様なら、私の言葉をご理解くださるはず。様々な書を読んで学べば学ぶほど……物事について深く知れば知るほど……明確になります。この世には説明の付かないことなど存在しない。現に孔子も言い切っています。『怪力乱神を語らず』と。呪い、呪詛、或いは、祈り、祈願、全てマヤカシ、心の気休めじゃ」
覆面の頭を静かに振る。
「私は存在しない〈呪返し〉などより〈流行り病〉の方が遥かに恐ろしい」
女房は男達に言葉を挟ませなかった。
「実際、栄華を誇った藤原不比等の息子たちを一瞬で亡き者にしたのも〈流行り病〉なれば」
光明皇后の父、藤原不比等は4人の息子を全員、一週間の内に痘瘡で失った。史実である。
女房は言い添えた。
「歴史を紐解くまでもなく、私自身も家族全員を流行り病で亡くしました」
「え? そうなのですか? それは、その、お気の毒です」
口の中でモゴモゴ言う検非遺使尉。
女房も掠れた声で、
「父も母も兄も妹もあっと言う間に死に絶えました。生き残ったのは私だけ」
とはいえ女房の声はすぐに力強さを取り戻した。
「そのおかげで、大学の頭だった伯父に引き取られて、思う存分、書を読み、学問三昧に過ごすことができました」 ※大学の頭=博士・大学寮長官
ふと思い出したように微笑む。
「そういえば陰陽師様もお身内を早くに亡くされて寺に入られたとか。私たちは似ておりますね?」
「とんでもありません!」
即座に有雪は首を振った。
「私は無位無官のしがない橋下の陰陽師。今をときめく、皇后様ご寵愛の女房殿とは雲泥の差です」
「ふん、皆、私が『似ている』と言うと否定する」
横を向いて嘆息した後で、再びイチトイは陰陽師に顔を向けた。
「神、或いは鬼、……兎に角、人間以外の存在に縋るなど無知無学の証。浅ましい限りじゃ」
「ほら! そこが一番違う!」
橋下の陰陽師の砕けた口調に傍らの検非違使はギョッとした。
「おい、有雪――」
「悪いが女房殿、俺はそうは思わない。俺も、自分はそんじょそこらの人間には負けぬ賢者だと自惚れているがな」
「ちょっ、有雪、場をわきまえろ! その物言い、ここは田楽屋敷ではないのだぞっ」
「だが、信じている。天、神、鬼――どんな名で呼ぶかは知らぬが――俺達人間を超えた大きな力が存在すると」
友の手を振り払って有雪は言葉を重ねた。
「この世界以外にも世界が存在する。常識の通用しない世界、理屈や言葉では言い表せない世界……生死すら越えた世界が……」
桧扇がパチンと鳴った。
「これは意外じゃ。博学の貴方様がそんなことをおっしゃるとは」
「そうか? だって、俺はまた会いたいからな。失った人たち、去って行った人たちに」
この世ではついに会えなかった母。
救えなかった姫。
おや、待てよ? もう一人いた気がする。
そう、行き着く先を見届けられなかったあの娘……
何処で、いつ、会ったかな?
「とにかく――世界がここだけでないなら、再び相まみえることも出来るだろう?
神や仏、鬼までも、つまり、ソウイウモノや世界を否定したら俺は大切な人たちに二度と会えなくなる。それは嫌じゃ」
どのくらい時が経っただろう。
ポツンとイチトイが訊いた。
「……失った者たちに会って……如何する?」
「俺が幸せだったと伝えるさ!」
巷の陰陽師は素晴らしい笑顔を返した。
「だがらこそ、こうして――今この世界で、俺はそこそこがんばって生きている。この先も、悔い無きよう、せいぜい楽しくやってくつもりさ!」
※出典となった論語より。「子、怪力乱神を語らず」
孔子は〝人知では推し量れないこと、理性では説明できないことがら〟につい
ては語らなかった。人知、理性で説明できることだけを語った。
但し、孔子が神秘や霊的なものを否定していたのかどうかは諸説あります。




