白と赤 14
「大変だ! 起きろ、有雪!」
翌日の布留邸。その大広間。
有雪は成澄に揺り起こされた。
「ううむ……流石に、もう飲めぬ……むにゃむにゃ」
「呆れたやつじゃ。夢でさえ飲んでおるのか? とにかく、目を醒ませ、有雪っ!」
検非遺使のがなり声に目を擦りながら起き上がる。
「なんだ? また新しい兎歩の出現か?」
「違う。だが別の災難だ。大内裏の局からおまえを名指しで呼び出し状が届いた!」
「?」
流石に目を剥く巷の陰陽師。
「どういうことだ? 局? 呼び出しだと?」
〈局〉とは宮中や貴族の殿舎の一画を仕切って誂えた上級の女房の私室、居室のことである。
内裏の局ならば後宮六舎七殿の内にある。
「おまえ、昨日、往来の牛車の前で『鬼が乗ってる』云々と言ったろう? アレが聞こえたらしい。中にいたのは今をときめく高位の女房殿で……物凄くお冠らしいぞ!」
「ふん、下らぬ」
有雪は吐き捨てた。
「俺達は今それどころじゃない。帝よりの大役を担っているのだ。たかが女房のご機嫌取りに時間を使えるかよ」
「〝たかが〟と言うがな、この女房、イチトイと言うのだが。前関白・藤原忠実の娘で現皇后・勲子様の1番のお気に入りなのだ。ここはさっさと詫びを入れるに限る。安心しろ!」
ドンと検非遺使は逞しい蛮絵の胸を叩いた。
「俺が一緒に付き添ってやるよ。上手くケリをつけてやるからな」
「ふうん?」
有雪は夜具の上に胡坐をかいてため息を吐いた。
「宮仕えとは厄介なものなのだな? やはり俺は金輪際、無位無官でいよう……」
礼節を重んじる局に赴くのだ。今日ばかりは、成澄は布留佳樹の装束を有雪に着せた。最高級の黒衣、これで一応、外見は蔵人所の陰陽師に見える。髻も結って烏帽子も被った。
その姿に白烏が嬉しそうに鳴いたのは意外である。
「ほう、そうか? そんなに似合うか?」
「ク―――――…… ルッ――!」
成澄も満足の体で頷いた。
「よし、行くぞ!」
が――
歩き出した成澄の背後でけたたましい音が響いた。
ガタターーーン……!
「なっ?」
振り返ると、もんどりうって派手に転倒している有雪の姿。
「大丈夫か、有雪! なんてこった、着慣れぬものを着たせいだな?」
「違う――」
「?」
喘ぎながら指差す有雪。
見ると、指貫から覗く有雪の足首に白い指が絡みついていた。
「佳樹の手!?」 ※指貫=袴
成澄は息を呑んだ。布留佳樹が手を伸ばして有雪の足を掴んでいる。
「では、意識が戻ったのか!?」
「何ですって!?」
護摩壇を取り巻いて咒を唱えていた一族もドッと集まって来た。
「佳樹殿っ!?」
「良かった、佳樹殿!?」
「佳樹殿!」
だが、そうではなかった。帝の陰陽師は相も変わらず目蓋を閉じたまま動かない。
「どういうことだ?」
「ムム? さっきのは単なる偶然か? おまえがドタドタ傍を通ったから、その振動で動いた――?」
「に、してはきつく絡み付いている……イテテ」
指を解きながら有雪は呻いた。仰向けに転倒して強かに打った後頭部が痛い。一方、成澄は少々笑みを零した。
「佳樹のヤツ、おまえなんかに自分の権威ある装束を着られたから腹を立てたのかもな。だが、まあ――怪我がなくて良かった!」
本物の帝の陰陽師を丁重に夜具に戻すと、改めて検非遺使尉は促した。
「では、急ごう」
「怪我がないだと? クソッ、たんこぶが出来てる……」
頭を摩りながら歩き出す橋下の陰陽師だった。
かくしてやって来た、後宮六舎七殿内の一隅。
その局は森閑と静まっていた。
どんなに仰々しく女房たちが連なっているかと想像していた成澄が拍子抜けするほど。
几帳の奥に座して待っていたのはイチトイ女房ただ一人だ。
「私を鬼呼ばわりしたのは貴方様ですか?」
噂どおり覆面をつけている。
イチトイは率直に質した。
「聞くところによりますと貴方様は帝の陰陽師・布留佳樹様の代理とか?」
「流石! 今をときめく女房殿! 内裏内外のお噂にお詳しい!」
慣れぬ世辞を並べて懸命に場を取り繕おうと務める検非遺使の中原成澄。
深々と頭を下げて、
「昨日は誠に失礼いたしましたっ。この者も心より反省をしております。無礼の数々、何卒、お許しを」
「別に謝罪をさせようと招いたのではありませぬ。こちらの陰陽師様に興味があって、ぜひとも一目お会いしたかった……」
「はあ?」
吃驚して思わず顔を上げた成澄など眼中にないというようにイチトイは有雪だけを見つめている。(流石にこの日この時、正装の有雪の肩に白烏はいない。後宮殿舎に至る安喜門の前で空に放って来た。)
「貴方様は、実は巷の陰陽師様とか。そうして、大層な物知り、博学とお聞きしました」
「全く持ってその通りです!」
傍らの成澄、小声で、囁く。
「おい、ここは少しは謙遜しろよ」
「面白い! やはり、私を鬼と呼んだだけのことはある!」
手にした桧扇の色糸が弾むように揺れる。
「あれは誉め言葉なれば。そうでございましょう?」
覆面にもかかわらず朗朗とした声でイチトイは詠じた。
「 唯一つ門の外にはたてれども鬼こもりたる車なりけり 」
有雪はぞっとするほどの美貌でニヤリと笑った。
「ご理解いただけて光栄です」
「???」
「この無粋な判官などはちっともわかってくれなくて……鬼がいるなら大刀で斬ってやると騒ぎ出す始末でした」
「な、なんだ、なんだ? 何の話をしているのだ? おい、有雪?」
「ほら、未だにわかっていません」
遡れば、後冷泉天皇の御世。
藤原基俊邸で仏供養を催したその日、説法聴聞に貴人たちが集った際、門前にぽつんと止まった車を見た基俊が詠んだ歌である。
《 唯一つ門の外にはたてれども鬼こもりたる車なりけり 》
実は、その牛車の内には皇后寛子寵愛の女房・筑前の君が密かに乗っていた。
時の摂政・藤原頼通にも敬愛された才女の女房の、姿を隠しても漂い来る圧倒的な気配を藤原基俊は〈鬼〉と呼んで讃えたのだ。
「このこと《藤原基俊家集》に記されている――」
「え? え? そうなのか? そういうことなのか? なんだよ、その場で解説してくれよ。全くヒトが悪いんだから、おまえは! アハハハ……」
「〝雅姫〟と今に伝わる筑前の君に喩えられようとは……! この上なき光栄です。謝罪どころか、御礼を申し上げたくお声をおかけしました」
それにしても、と女房は首を傾げた。
「何故、私、現皇后勲子様の女房のイチトイが乗っていると見破られたのでございましょう?」
「いや、それは偶然です」
珍しく謙虚に有雪は応えた。
「いくらなんでも、そこまでわかりませんでした。ただ、独特の、風流な気配を醸し出しているお車だったので」
「――」
唯一覆面から露出している瞳が瞬いた。
イチトイは話題を変えた。
「それはそうと、陰陽師様は現在、京師を震撼させているおぞましい災厄――〈血染めの兎歩〉についてお調べとか」
「流石! 賢明なる女房殿! それもご存知ですか?」
検非遺使の大声を女房は無視した。
「それに関わる……つまり、血穢の兎歩の謎を解くかも知れない不可思議な図絵を京師の彼方此方で見せ歩いているとお聞きしました。ぜひ、私も拝見したい」
「それは助かります!」
成澄は喜んで、懐に入れて持ち歩いていた件の絵を取り出した。
「だめだ!」
ズキリ
有雪の後頭部――先刻転倒して打った箇所が疼いた。
ダメダ
「そう、だめだ、成澄、それを見せるのは――イテテ」
「何を言ってる?」
屈強な検非遺使は取り合わない。
「俺達では無理だったが、こちらの賢い女房殿なら謎が解けるかも知れぬぞ」
ズキリ、目裏で火花が散る。
「ダメダ――」
「さあ! どうぞ、ご覧になってください」
「おい、待て、と言うのに! 勝手に――」
慌てて止める有雪を無視して成澄は3枚の絵をイチトイ女房の膝前に差し出した。
「ほう? これは面白い……」




