白と赤 12
第7番目の血染めの兎歩の場所は、源俊房邸前だった。
「で? どうなんだ? この場所に意味はあるのか?」
乗り付けるや直ちに成澄が質す。
「三条堀川か。順番としては、まあ、この辺りだろうな」
最初に自分で描いた兎歩の図柄と、眼前の血穢を見比べながら応える有雪。
新たに〈七〉を書き加えた。
「くそっ、だが、それ以外は全くわからぬ」
「とはいえ、このおぞましいものを見るのもこれが最後。一応は終結だな?」
烏帽子に手をやって呟いた検非違使を有雪は振り返った。
「え?」
「だって、兎歩は〈北斗七星〉を模しているんだろ? 今回が7回目だから、もうこれ以上はこれを見なくてすむ」
「相変わらず爽やかな馬鹿だな、成澄よ?」
「う?」
「北斗七星は正確には九星じゃ。北斗七星そのものは七星だが、道教や陰陽道では、弼星と輔星という二つの星を加えて九星とする。古からの仕来りだ」
「ああ! だから、兎歩の別名は九星反閇とか三歩九蹟法なのか!」
納得して叫んだ検非遺使の声はすぐに暗く澱んだ。
「では、少なくとも後2回、続くと見ていいのだな?」
「そうだ。だが、その前になんとしてもこの呪詛の意味と目的を解き明かして、首謀者を捕らえねば。なあ、判官?」
橋下の陰陽師の常にない真摯な言葉に検非遺使尉はキリリと眉を上げた。
「そ、その通りだ!」
「サン? サンよ……サン?」
返事がない。
「サン! いないのか? 今日は留守か?」
糸繰り小屋の前で狂乱丸が吐いた溜息は白い霧になって空へ昇って行った。
「―-」
今日も洛中より遥々やって来た山城の地。
落胆して小屋の戸板に寄りかかった時、足音が聞こえた。
「サン?」
「狂乱丸様?」
喜んで駆け寄る狂乱丸。
「どうした? 今日は中にいないから心配したぞ? 風邪でも引いたか?」
「大丈夫です。なんでもありません」
だが娘の声は皺枯れていた。
「そうじゃ、土産がある! これを食べて元気を出せ!」
「?」
田楽師が煌びやかな水干の懐から取り出したのは――
「今、京師で人気の飴屋の黍餅じゃ。甘くて美味いぞ」
「……ありがとうございます」
「さあ、ここで、今すぐ食ってみろ。遠慮するな、サン」
強引に包みを、垂らした笠の領布の奥へ差し入れる。
その仕草にサンは笑った。
「まあ!」
こうして――今日も娘の笑い声を聞くことが出来きて大満足の狂乱丸だった。
「それにしても、いい名だな、サンとは」
さっき空っぽの小屋の前で寂しく呼んだその名を嬉しそうに呼ぶ田楽師。
「え?」
「おまえに似合っている。明るくて軽やかで良い響きじゃ。ほら? お日様だってサンサンと降り注ぐ――」
「アハハハハ」
サンはまた笑った。
「貴方様はやはり可笑しいことを言われる御方じゃ。私のように醜くて人様に顔を曝せない娘を? 始終黒い布を被った娘を? よりによってお日様に喩えなさるとは」
笠を傾けて天を仰ぎ見ながら娘は言った。
「私とお日様は一番かけ離れている物同士ではございませんか」
―― 逆とはなんじゃ、言うてみよ、サン?
イチトイ女房殿の声が蘇る。
―― 光と闇、天と地、花と嵐、金と泥、白と黒……まだあるぞ?
羅刹女と美女、バケモノと雅姫……
「そんなことはない!」
真顔で田楽師は言い返した。
「俺の知り合いの胡散臭い陰陽師が言っていたぞ。影と光は実は同じ言葉なのだと。影は同時に光を意味する。それを聞いた時は馬鹿なことを言うと嗤ったが、今の俺にはその意味がわかる」
噛み締めるように狂乱丸は言うのだ。
「俺にはわかるよ。そら、その暗い布の向こうで誰よりも明るい光が輝いている」
サンはまたいつかの言葉を小声で繰り返した。
「……私の本当の姿をご覧になりたいですか?」
「いや、別に」
狂乱丸はサッと首を振った。射千玉の髪が娘の黒い領布を掠める。
「見ようが見まいがおまえに変わりないからな。夜の闇の中でも梅の花は梅の花じゃ。見えても見えなくとも、おまえはそこにいるのだもの」
「では」
笠が揺れる。涙声を隠すように一際明るい声でサンは言った。
「私の名の由来になったものをご覧に入れましょう。それなら、見たいでしょう?」
「へえ? サンの名の? そんなものがあるのか?」
「こちらです!」
手を取って娘は駆け出した。
「なんと、こりゃまた……こんな形のものは初めて見たぞ!」
サンの指差した、名前の由来だというそれを目の当たりにして狂乱丸は息を飲んだ。
「我が里に生まれた一族の不幸な子は皆、〈サン〉と名づけられます。その意味の一つはここから――」
「なるほど、これはまさに〝サン〟だな!」
もっとじっくり見ようと近づこうとした、その時だった。
「いけない! 隠れて!」
「!?」
いきなりサンが狂乱丸の袖を掴んで木立に飛び込んだ。
「な、なんだ?」
「シッ」
身を隠した二人の前を娘たちが数人笑いさざめきながら歩いて行く。
「どうし――」
「シイッ」
寄り添ったサンの体が強張っているのを狂乱丸は気づいた。
「綺麗な色じゃ! よう似合っておるぞ、ミオ!」
「そうよ。あの人に貰ったのだもの!」
「言ってくれるわ!」
「じゃあ私も買ってもらおう! 私のオビト様は優しいから何でも言うことを聞いてくれる。私は萌黄色がいいな!」
「私は山吹色じゃ! 私のハヤオ様も優しいぞ!」
山城の里の娘たちは髪を束ねる色糸を自慢しあって通り過ぎて行った。
「ふう、脅かすなよ、サン」
立ち上がりながら狂乱丸が問う。
「何で隠れたのじゃ? あれは娘たちじゃないか。俺はてっきり、恐ろしい鬼でも来たかと肝を潰したぞ?」
「だって」
どうやらサンには鬼や京雀などより娘たちの方が苦手らしい。
口さがない京童と違って分別のある娘たちはけっしてサンをからかったりしない。ただ、そっと目を逸らすだけ。見てはいけないものを見たというように。
それが露骨な嘲笑よりサンには辛かった。まして――
「貴方様と一緒にいるところを見られたら……」
「何故じゃ? 俺と一緒にいて何が悪い?」
「とても滑稽に見えます」
領布の向こうのくぐもった声。
「私のような醜いバケモノと京師一の美しい田楽師様が一緒にいるなんて」
「馬鹿だな、サンは! またそんなことを言う。いや」
狂乱丸は眉間に皺を寄せた。
「馬鹿は俺だな。こんな餅なんぞより――美しいものを持って来るんだった!」
さっきの娘たちが自慢しあっていたような色糸とか、櫛などを……
「その方がサンは嬉しかったんだろう?」
「と、とんでもない! そんなこと夢にも思いません。サンは黍餅で充分です」
「手を出せ、サン」
「はい?」
領布から娘の手を引き出すと狂乱丸は自分の手を重ねた。
「これは?」
「やるよ。今、俺がおまえにやれるのはそれぐらいだ」
手の中には青い石を繋いだ数珠が置かれていた。
「美しいだろう? 海を渡ってやってきた石だぞ。一度は南都の大仏を飾ったとか」
「――」
とある経緯で、前関白・藤原忠実に賜った宝玉である。以来、腕輪にして身に着けていた。
ちなみに弟は赤い指輪をしていて、知らない者が二人を見分けるのに役に立っている。
「そんな! このような貴重なもの、いただけません!」
「いいから。持っていろ。きっとおまえを護ってくれる」
「お守りなのですか、これ?」
「そうさ! 今からな! 俺がそう念を込めたから」
「勿体のうございます。お返しいたします」
狂乱丸は吹き出した。
「そんなにしっかりに握っているじゃないか!」
「あ」
言葉とは裏腹にサンは両手で石を握り締めていた。
「では、お、お預かりさせてください。きっと、きっとお返しいたしますっ」
悪戯っぽく笑って狂乱丸、
「ほう? いつじゃ? いつ返す?」
「こ、この次。貴方様がいらっしゃった時には、必ず……」
「いいよ!」
京師随一と讃えられる田楽師は、素晴らしい笑顔を煌かせた。
「それなら、この次、会った時、また俺はおまえに渡そう!」
握って放せなかったのは玉が美しいせいではなかった。
狂乱丸と別れて帰った社の一隅。
夜具の中でサンは宝珠を握り締めながら思った。
これは貴方様との絆だから。目に見える形。
一回くらい……一晩だけでも……そばに置いてもいいでしょう?
娘に生まれて、愛しいお方から、護ってやるとお守りを渡される。
夢見ることすら畏れ多かったのに。
でも、知っている。
私はもはやこのような宝珠を持てる身ではない。護ってもらうに値する娘ではない。
見た目が醜いだけならまだしも――
もう遅い。
外側だけでなく私は心まで恐ろしいバケモノなのだ。
内側までもどっぷりと、二目と見られぬ汚らわしい、腐ったバケモノになった……
―― おお、おまえ? なんだその身体は?
―― おまえは何者だ? この世のものではないな?
やめて
―― 初めて見たぞ! こんな顔かたち……この肌……
やめて
――妖し? バケモノとはこれか?!
やめて、私を見ないで
―― もっとよく見せろ……
―― そのとおりじゃ、もっと見せておやり、サン。
おまえを見た者は、もはや逆らえない。
さあ! 今宵も凍りつかせて……震え上がらせて……
こちらへ連れておいで……




