白と赤 6
「兄者――っ!」
探す当てなどないものの無我夢中で往来へ飛び出した婆沙丸だった。
と、目に飛び込んで来たものは……
「兄者?」
一条通りをこちらへ向かって歩いて来るその姿は、京師随一と讃えられる兄、狂乱丸。
「無事だったのか! どこも食われていないか?」
破願して抱きつく弟をきょとんと見つめ返す兄。
「何が?」
「てっきり兄者が食われてしまったかと気が気じゃなかったぞ!」
「何で?」
「え? だって、兄者がバケモノと連れ立って歩いてたって――もっぱらの噂だからさ!」
「ああ、やっぱりな! もう知れ渡っているのか」
大いに納得して頷く狂乱丸だった。
「俺は目立つのだなあ!」
頭の天辺から爪先まで視線を走らせて恐る恐る婆沙丸は訊ねた。
「本当に大丈夫だったのか? 兄者が『バケモノに魅入らせられた』と京雀どもが騒いでるそうだが。それを聞いて、俺はもう心配で居ても立ってもいられなくて――」
首を傾げて瓜二つの顔を覗き込む。
「それにしても、一体、いつ、何処で、兄者はそんなバケモノと知り合ったのじゃ?」
「サン」
「え?」
「その娘の名は〈サン〉じゃ。〈バケモノ〉じゃない」
「兄者……」
「いい子だよ。わけあって醜く生まれついたというが、自分のことより周りの人たちを不快にさせたくないと、笠と黒い領布で顔を隠している。手足まで布で覆っている」
狂乱丸は繰り返した。
「いい子だよ」
―― サン。
サンと申します。
田楽を奉じた右京の神社、そこよりも更に北へ。
御室川の西、双ヶ岡の南。
ほとんど口も利かず歩き通した果てに至ったその一画は狂乱丸には初めての場所だった。
平安京遷都以降〈山城〉と呼ばれる地域である。最古の寺と伝わる蜂岡寺の近辺。
古風な籬の前で深々と頭を下げて走り去ろうとする娘を呼び止めて聞き出したのだ。その名こそ……
「サン」
兄の、こんな穏やかな声音を婆沙丸は初めて聞いた気がした。
「サンは自分の境涯を嘆くより、周囲の人たちを気遣っている優しい娘だ」
「兄者、気に入ったんだね? そのバケ……娘――サンのこと」
「ああ。凄く美しい」
「え?」
「声がさ。宛ら、鈴のようなのだ。邪気を祓う鈴。特に笑い声が……」
「笑い声を聞いたのか?」
「一度だけだったがな」
頬と同じ、薔薇色に燃え立つ空を見上げて狂乱丸は呟いた。
「ああ、また聞きたいな! どうしたら笑わせられるかな?」
どうしたら、また、あの娘の笑い声を聞くことができるのだろう?
「疲れた。今日のところはこれでもう充分だろう?」
計6箇所の血穢が撒かれた場所を検分し終えた橋下の陰陽師である。
燠火のような冬の夕空を切り裂いて白烏が肩に舞い降りて来た。
「見ろ、もう日が暮れる。俺は帰る」
「待て」
白装束の袖をガッシと掴んだのは黒衣の蛮絵装束、検非遺使尉だ。
「おまえが帰るのは田楽屋敷ではない。布留家の邸だ」
「へ?」
「あくまでおまえは布留佳樹の代行という身なのだからな。そして――」
検非遺使は厳かに付け加えた。
「常に俺が付き従う。これは帝直々のご命令である。俺の指名は〈血穢の卯歩〉の真相を解明する任に当たる陰陽師の護衛なのだ。今度こそ――おまえが佳樹のような目に会わないよう命を賭ける。同じ失態は繰り返さない」
「いや、あれは呪返し――呪詛の争いなんだから、護衛の一人や二人付いていたところで何の役にも立たぬ」
燃える眼差し。決死の覚悟の検非遺使に冷ややかに有雪は言った。
「知っているだろう? 例えば牛頭天王の話。兄の蘇民将来は生きのびたが、呪詛された弟、巨旦将来は、邸を蟻の這い出る隙間もないくらい検非違使が警護していたにもかかわらず命を落とした。『備後国風土記』にちゃんと記されている」
「ありがたいことに俺はモノを知らぬ輩だからそんな話は関係ない。それよりもさ」
素晴らしい笑顔を煌かせる中原成澄。これこそこの男の最終兵器である。
「おまえだって、俺が傍にいたほうが心が安らぐだろう?」
「まあ……酒盛りの相手にはなるな」
ここで重大なことに有雪は気づいた。
「ゴホン、その、なんだ、布留の邸では酒は振舞ってもらえるのか?」
「そりゃ、もう、好きなだけ」
「それを早く言え! じゃ、直ちに戻ろう!」
かくして帰還した布留家。
大広間に大甕を据えて酒を飲みだした橋下の陰陽師と検非遺使尉だった。
すぐ横では護摩壇が燃え、咒が響き、当主の布留佳樹本人が横臥している。
流石に遠慮気味に盃に口をつける成澄を有雪がせせら笑った。
「フフン、護摩壇に酒の大甕。この光景は夢の通りじゃ。だから気にするな、大いに飲め、成澄」
「夢か。なあ、佳樹はまだ死んでないのだろう?」
成澄は肩越しに振り返って帝の陰陽師の白い横顔を見つめた。
「うむ。口は利けぬ。だが、浅く息がある。体も仄かに温かい」
「とすれば、おまえならまだ佳樹の言葉を聴くことが出来るかも知れないな?」
希望に目を輝かせて豪放磊落な検非遺使は言った。
「おまえなら意思の疎通ができるかも……と言うことは、真相に近づく道を教えてもらう機会はまだ残されているんじゃないのか?」
「――」
「あそこに屯している直系の兄弟どもはその種の能力はさっぱりのようだからなあ」
暗示でもないだろうが。
珍しくこの無骨な検非遺使の予感が当たった。
深更。
森閑と静まり返った大広間。
耳が痛いほどの静寂に盃を呷り続けていた有雪は顔を上げた。
護摩壇で燃え盛っていた炎はいつ消えたのだろう?
夜を徹して念じ続けるはずの咒の声も途絶えていた。
(全く、無能の上に怠惰な子弟どもだ。)
悪罵したのも束の間――
「う?」
肩に止まっていた烏の鉤爪が人の指に変わった。トントンと背後から肩を叩かれる。
仰ぎ見ると布留佳樹である。
「また出たな。今度は何の用だ?」
帝の陰陽師は無言のまま白い指を宙に浮かせ、指差した。
「あ! いつの間に?」
有雪は胴震いして叫んだ。
「なんだ、これは!?」
そこには――




