キグルイ13 ★
「!?」
田楽屋敷を塗り込めた深い闇。
この闇はただの黒ではない。地の底、地獄の暗黒――
「な、なんだ、なんだ?」
「これは一体どうしたことじゃ?」
座敷で飲み交わしていた一同、訳がわからずただその場に凍りついた。
真暗の闇の中にぼうっと浮かび上がったのは……
「沙耶丸!?」
「どうした、おまえ、とっくに母者と寝たはずではないのか?」
「恨めしいぞ、おのれら……」
とても子供の声とは思えぬ皺枯れた声が響いた。
「沙耶丸め! ……あの子だけ母者に会って……俺はどうなる?」
「な、なにを言っている、沙耶丸?」
「沙耶丸はおまえじゃないか、そのおまえが母に会えたのじゃ、これ以上喜ばしいことはない!」
「そうじゃ! それだから――俺達はこうして祝っているのだぞ!」
「おまえは存分に甘えて来い!」
「俺じゃない! 俺はまだ母に会っておらぬ!」
「おまえ!」
有雪が叫んだ。
「おまえ、沙耶丸じゃないな!?」
「え? 沙耶丸じゃない?」
検非違使、続いて田楽師兄弟が闇の中でさざめく。
「ならば――誰じゃ?」
「この――目の前にいる者は一体……?」
「恨んでやる、おまえら! 何より――沙耶丸!」
闇の中の沙耶丸は絶叫した。
「自分だけ母に会って! 自分だけ幸せになって! 母に会いたい思いは一緒だったのに!」
小さな両手が閃いて自分の喉を掴む。
満身の力で絞めた。
「グエエ……」
「やめろっ!」
飛び出した有雪。
ダンッ……
眼前、小さな体が床に昏倒して、弾んだ。
「沙耶丸!?」
パッと視界が明るくなった。
灯りが戻って来た座敷の中央、意識を失って倒れている沙耶丸を抱き起こす有雪の姿。
その周りに皆も一斉に駆け寄った。
有雪が驚愕の声を漏らした。
「な、なんだ、この熱!」
廻した腕が焦げるかと思うほど、沙耶丸の細い体が熱い。
「これはいかん、このままこの熱が続いたら明け方まで持つまいよ」
今日2度目となる、田楽屋敷に呼ばれた薬師。
沙耶丸を診終えると苦渋に満ちた顔で呟いた。
「悪いが、ワシには手の施しようがない」
「沙耶丸っ!」
灼熱の息子の体を掻き抱いて母、軽野は泣き崩れた。
「やっと、今日、会えたというのに! おまえに何かあったら、私も後を追う。おまえがいればこその苦労じゃ。それを……おまえなしには私は生きていけぬ!」
若い母は黒髪を波打たせて泣きじゃくった。
「思えばこうなったのは全てこの母のせいじゃ! おまえに寂しい思いをさせ、過酷な旅をさせた! 悪いのは浅墓だったこの母じゃ!」
「まあまあ、落ち着け。まだ死ぬと決まったわけじゃない! 心を強く持て!」
半狂乱の母を宥める成澄も必死だった。
「我等にはどんな難問も見事解いてきた〈当代1の陰陽師〉が付いておる! そうだな、有雪?」
背後、定まらぬ目で突っ立っている有雪を振り返って検非遺使は言う。
「だから、今回だって……なんのことはない、熱の原因を探り当てて、無事、沙耶丸の命を救ってくれるはずだ。な? そうだよな? そうだと言ってやれ、有雪!」
「陰陽師様!」
有雪の薄汚れた袴に縋りつく軽野。
「どうか、どうか、お願いします!」
「……無理じゃ」
どこかで……前にもこんなことがあった。
食い込む白い指を剥がして有雪は室から出て行った。
「待て、有雪!」
黒衣の検非遺使が追って来た。
「これは一体どういうわけじゃ? 何が起こったのか、俺にはまだトンとわからぬ。とにかく、一から説明してくれ」
縁の柱に凭れて掠れた声で有雪は言った。
「沙耶丸は一人じゃなかったんだ」
そう、沙耶丸が田楽屋敷にやって来たその最初の日に俺が見たとおりに……
―― だからよ、もう一人の方、おまえはなんと言う名じゃ?
「一人じゃない? それはどういうことだ?」
「つまり――乗っ取られている、いや、憑依されているという方が正しいか」
「誰に?」
「だから――それがわからないから始末に負えないのだ!」
巷の陰陽師は白皙の顔を歪めて喚いた。
「だから、無理だと言ったのじゃ! 俺には無理じゃ! 沙耶丸に取り付いているモノの正体がてんでわからぬ! これ以上、俺に期待するのはやめろ!」
「諾」
検非遺使尉の静かだが、よく通る声。
「おまえが無理だというなら――俺が探すさ!」
「今度ばかりは……沙耶丸の母者を探す以上に難しいぞ、成澄。しかも、命の刻限は夜明けまでだと言うじゃないか。 到底無理じゃ」
「そんなことやってみなけりゃわからないさ!」
いかにもこの男の言いそうなことだ。不屈の心を有す検非遺使は陰陽師の胸倉を掴んで揺すぶった。
「だから――どんな些細なものでもいい。情報をくれ、有雪!」
少しだけ有雪は笑った。
「多分、沙耶丸と似た境遇の誰かだ。そのくらいは俺にもわかる。母と引き離され、母を恋い、会いたがっている誰か……」
母を思う、その激しい思いが重なったのだろう。
だが、今日、本物の沙耶丸の方は思いを遂げた。
恋焦がれた実母と再会を果たした。
「それで、今や、一人取り残されたそいつは荒れ狂った。宿主への恨みが募ってこんなことを……」
唇を噛んで有雪は言い直した。
「そいつが……宿主を殺そうとしているのだ!」
「そんな――」
「邪魔だ、邪魔だ! どけよ!」
片腕を釣った痛々しい姿の婆沙丸が小者に大きな盥を持たせて通り過ぎた。
「さあ、これで沙耶丸の体を冷やすんだ! 俺達で少しでも楽にしてやろう!」
「あ、はい!」
弾かれたように盥に飛びつく母。
腰を打ってまだ充分に動けない狂乱丸はさっきからずっと少年の体に扇で風を送ってやっていた。
皆それぞれに一生懸命である。
縁に佇んだまま有雪はそんな様子をぼんやりと眺めた。
「まあ、これ?!」
熱に火照った我が子の体を冷たい布で拭き始めた軽野が声を上げる。
少年の胸に下がった袋に双眸が釘付けになっている。
「ああ、それか?」
交互に答える田楽師の兄弟。
「お守りだって言ってました」
「母者――あなたの化身だって肌身離さず持っていたんですよ」
「沙耶丸――っ!」
また泣き崩れる母だった。
「ちょ……ちょっと、見せてくれぬか、それ」
いつの間に寄って来ていたのか、巷の陰陽師の声が降って来た。
振り返ると、真後ろから覗き込んでいる。
「は、はい?」
促されるままに軽野は袋を差し出した。
普通の守り袋より大きな袋。
中を開けるとその中にあったのは――
「あ!」
「これは……?」
櫛だった。
「わっ!」
突っ伏して号泣する母。
「そ、それは私の櫛です。この子の父、私の夫、那図から貰ったもの……私の宝じゃ!」
粗末な櫛である。
「お笑い下さい。山奥の杣人が柘植の櫛など持てるはずも無い。でも、それは今は亡き夫が手ずから削ってくれた大切な宝物……」
「待て、今、何と言った?」
「私の宝物と」
「そうじゃない、その前、確か言ったな? 柘植ではないと」
「え? あ、はい」
きょとんとして樵の妻は繰り返した。
「櫛といえば、最高級はやはり柘植でございましょう? でも、これは夫、那図が私のために欅で作ってくれたー」
「それだああああ!」




