キグルイ10
現代で言う〈首都警察〉、使庁こと検非遺使庁は、東を堀川小路、北を鷹司小路、西は猪隅小路、南が近衛大路に面した堂堂たる造り。平安京左京の一条二坊七町を占める。
さても、警察権と司法権を司るこの権威ある使庁を訪ねて来た場違いな人物。肩に白烏、薄汚れた白装束の陰陽師を一目見るなり検非遺使尉・中原成澄は叫んだ。
「どうした、有雪! その顔、幽鬼のようだぞ!?」
元来、ぞっとするほどの美貌の持ち主である。その外貌にそぐわぬ下卑た仕草や雑駁な物言いが辛うじてこの男を人間――地上の存在――として繋ぎ止めている感があった。
それなのに、どうだ? 久しぶりに見る巷の陰陽師は、透き通ってこの世の者とも思われない。
「ああ、実際、参っている。俺は哀れなキグルイさ」
「え?」
「このままでは本当に狂っちまう。だから、そうなる前にこうして――おまえに会いに来たのだ」
このところ検非遺使は田楽屋敷に顔を出していない。その理由は有雪も知っている。
「例の奇怪な焼死の件、その後、どうだ?」
「ああ、あれか?」
検非遺使は羽虫を追い払うような仕草で顔の前で手を振った。屍に集る羽虫を。
「今更おまえに告げたところでどうしようもないから黙っていたがよ。あれから三件続いている」
「昨夜も、あったろう?」
ヒタヒタヒタ……
廊下を渡って行く足音。
「え? そう、まあな」
舌打ちをした後でハッとして顔を向ける。
「なんだ? 謎の焼け死に関して、何かわかったのか? 遂に謎が解けた?」
自嘲気味に陰陽師は声を上げて笑った。
「謎など解けぬ。ハナから今回の出来事は《謎》などではないのだから」
「謎ではないのか? じゃ、一体なんだ?」
「強いて言えば……《呪縛》かな」
「はあ?」
目を剥いて困惑する検非遺使の蛮絵の胸に有雪は指を付き立てた。
「とにかく、成澄、一刻も早く沙耶丸の母の所在を探し出せ! これが俺の行き着いた結論じゃ」
「そんなこと、わかっている!」
思わず大声を上げる検非遺使尉。
「俺だって時間を見つけては色々訊き廻っている。だが、なにしろ、こっちの薄気味悪い焼死事件を抱えていて、中々――」
「頼む、成澄」
「え?」
今、何と言った? 『頼む』と言ったのか、この尊大な男が?
聞き間違いだろうか?
耳を疑う成澄に有雪は繰り返した。
「お願いだ、成澄。とにかく、今は何を置いても、沙耶丸の母探しを優先してくれ。でないと」
「でないと?」
「俺の身が持たぬ……」
巷の陰陽師は蒼白の顔を拭った。
「恐ろしい光景が次々と襲ってくるのだ」
「有雪よ」
低いがよく通る声。成澄は確認した。
「ソレは卜占か? 夢占いとか夢告の類か?」
「いや、違う。俺の」
目を逸らし、肩の白烏を撫でながら弱弱しく笑う陰陽師。
「俺のキグルイが生んだ幻……妄想さ」
「諾!」
朗らかに笑って検非遺使尉が立ち上がる。
「卜占なら俺は動かない。そんなあやふやなものは信じないし、第一、俺なんぞには手の出しようがない世界だからな。だが、悪夢に悩まされているという友の〝手助け〟なら――お安い御用だ!」
「成澄――」
「憶えておけ、有雪。俺には、現実的で、単純で、わかりやすい理由があれば……それでよい!」
控えていた史生に、 ※史生=文官、秘書、記録係
「中原成澄、本日、友人救出のため出動と記しておけ!」
「はあ? でも、それだとオオマカ過ぎます」
「じゃ、友人1からの緊急要請/悪夢からの救出。友人2からの緊急要請/行方不明の身内捜索。これでどうだ?」
「そ、そんな……」
史生、慌てて首を振る。
「それに別当殿に任された焼死の件はどうなります? まずはそちらを――」
既に成澄は愛用の珊瑚の鞭を掴んでいた。
「さあ、そうと決まったらすぐこれから馬で都大路小路を駆け廻るぞ! 受領職の経験のある全員の邸を片っ端から検めるとしよう!」
悪戯っぽく片目を瞑ると、
「俺もそっちがやりたかったんだ。死に様が不気味というだけで別当殿はせっつくがよ、あの焼死者たちはどれも全うな人間ではない。夜の京師を徘徊する素性怪しき不善の輩じゃ。本来なら俺達検非遺使が切り捨てて然るべき連中だ!」
※別当=最高長官
言葉通り颯爽と使庁の白石を跳ね飛ばして飛び出して行く検非遺使尉。
「頼んだぞ、判官……!」
その姿を見送ってから有雪も身を翻した。
幾分心が軽やかになっている。これなら田楽屋敷に帰って一眠りできるかも知れぬ。
だが、一条堀川の通りを歩き出して程なく。
ヒタヒタヒタ……
往来の雑踏の中でも、有雪にははっきりとその音が聞き取れた。
ヒタヒタヒタ……
全身から汗が噴出す。
(ここまで? 遂にこんなところまで俺を追って来た?)




