キグルイ8
〈宴の松原〉は一条堀川の田楽屋敷からさほど遠くはない。一条大路を真直ぐ行けば突き当たる大内裏の内にあるのだ。 ※大内裏=宮城、帝の在所
内裏の管轄とはいえ樹木が生い茂り潜り込むのは容易だった。
そもそも、禁裏のこんな場所にこれほどの森が、何故、存在するのか――
実は京師に住む誰一人、その正確な理由を知らなかった。
平安京造営時に、内裏の代替地として確保したのだ、とか、緑の中で風雅に饗宴を催す場所だった、とか伝わっているが正確なところはわからない。真相は謎のままだ。
いずれにせよ、放置され、手を加えられないまま、いつしか深い森になった……
森は人を癒し和ませると同時に、心をざわつかせる。
茂った木々がその内に抱く陰のせいかも知れない。その暗闇を凝視すると何だか己の心の闇を覗いている気がする。
そんなことを思いながら歩いていた有雪、ハッとして足を止めた。
(おや? この道、見憶えがあるぞ……?)
夢の中で見た、あの燃える赤子の手が襲って来た場所に似ている?
勿論、気のせいだ。森など、何処も同じに見えるものだ。
頭を振って獏とした不安を振り落とそうとした有雪の目に木に登る少年の姿が飛び込んで来た。
「ほう? たくさん取れたな!」
「陰陽師さん?」
枝の上で笑い返す沙耶丸。その可愛らしい笑顔。
「婆沙丸から籠を託されてな!」
「今行きます」
懐を果実でいっぱいに膨らませて少年はするすると降りて来た。有雪が差し出した籠に大切そうに紫の実を入れていく。
「おや? その指はどうした?」
アケビを持つ少年の指先に目を留める有雪。
「おまえも怪我をしたのか? 狂乱丸が落ちた時か?」
「違うよ!」
ハッとして、手を引っこめる沙耶丸。
「こ、これは元からある傷だ。大丈夫、もう治りかけてるから」
「そうか、気をつけろよ。果実の実や汁……それに樹液にはカブレる種も多い。ほっとくと皮膚が爛れるぞ」
曖昧に頷きながら籠を返す。
「どうぞ、それを持って先に帰ってて、陰陽師のおじさん」
「おまえは帰らないのか?」
「俺は――」
少年はパッと身を反らせて背後の木々を指差した。
「あっちの琵琶の実も捥いでいく! あんなにたわわになっているもの。狂乱丸に食べてもらいたいんだ!」
沙耶丸は頬を染めた。
「俺ができる事はこんなことくらいだから」
狂乱丸といい、婆沙丸といい、勿論、検非遺使様も、俺のために親身になってくれてる。
京師のことなどわからぬ子供がちょこまかすると却って足を引っ張るから、おまえは田楽屋敷でおとなしく待っていろ。成澄はそう言ったという。必ず、おまえの母者の居場所を見つけ出してやるからな。
実際、京師に着く早々、往来で人買いに追いかけ廻されるという恐ろしい目に遇って沙耶丸は外へ出るのが怖かった。だから、田楽屋敷でじっとしていろという言葉に内心ホッとしている。
「では、おまえ、あれ以来一人で屋敷の外へ出たことはないのか?」
「うん。街中にはね。こんな――木々の中なら平気だけど!」
周囲を見回して笑う。
「都にも木が茂った場所があるとは知らなかったよ! 都には都人だけがいるものだとばかり思ってた」
真剣な顔でそんなことを話す沙耶丸。その様子は歳相応の無邪気な子供である。
「こんな場所は俺の故郷と変わらない。ここなら……木の中なら俺の天下だ!」
「そりゃ、威勢がいいな」
「俺の父者は邑1番の樵だったのだぞ! その息子だから、俺は木のことは何だって知っているんだ!」
少年は得意げに胸を張った。
「今の季節は美味い実を実らす木々がいっぱいある。それから、茸も! ああ、それら全部、狂乱丸たちに食べてもらいたいな!」
傍らに立つ有雪の存在を思い出して、
「あ、勿論、陰陽師のおじさんにもだよ?」
白装束を振り仰いで訊く。
「おじさんは木の実や果物では何が好き?」
「俺は……酒でいいよ」
「父者と同じだ!」
屈託ない笑い声を沙耶丸は響かせた。
「じゃさ、母者が見つかったら、濁り酒を造ってもらってあげるよ! 母者のソレは天下1だって父者は言ってた!」
「ほう!」
「俺も大人になったら飲ませてもらうんだ! ほんとは父者と一緒に飲みたかったんだけど」
父の那図は酔うといつも言ったものだ。早く大きくなれよ沙耶丸? 一緒に山へ入り、大いに仕事をして、帰って酒を飲もう! おまえの母者の酒は最高だぞ! 存分に酌み交わそうな?
だが、その父はもういない。約束は反故になった。
「でもいい」
拳を握って少年は乱暴に顔を拭った。
「俺はすぐ大きくなる。父者と同じくらい大きくなって……母者を護ってやるから!」
これはなんだ?
有雪の頬を冷たくて暖かいものが零れた。
これはいけない。
寺に入って以来、俺は涙とは縁を切ったのだから。
「どうかした、おじさん?」
すばやく頬を拭うと陰陽師は言った。
「おじさんはやめろ」
口早に付け足す。
「だが、まあ、早く母者が見つかるといいな、沙耶丸?」
「いつ見つかるか、占ってよ、おじ――陰陽師のおにいちゃん! 陰陽師って占いをする人だろ? ねえ、俺は母者といつごろ会える?」
「いや、占うのはやめておこう」
真顔で有雪は首を振った。
「え? 何故?」
「ここだけの話――」
左右を見回して人が居ないのを確認してから、巷の陰陽師は厳かな声で言った。
「俺の卜占は当たった験しがないから、さ」
「なーんだ、そうなの? アハハハハ」
「ハハ……ハハハ……」
結局、その日は日が暮れるまで、有雪は沙耶丸と一緒に様々な木に登って果実や木の実を集めて過ごしたのだった。
遠い日の友や鳥辺野の山のことなど思い出しながら。
田楽屋敷に帰ると、丸1日、大いに体を動かしたせいもあって、珍しく早くに眠くなった。
タダ酒をたかりに外へ出ることもせず、白烏が襤褸布の巣に丸まるのと同じ頃、夜具に潜り込む。
心地よい温み。
―― 早く大きくなって俺が母者を護ってやる!
フフ、俺も言ってみたかったな。
あんな風に何の衒いも無く、純真な目で。
―― 皆、自分を重ねているのさ。
これは検非遺使の言葉だ。
―― 皆、自分の代わりに沙耶丸を母者に逢わせてやりたい。
そうして幸せになってもらいたい。
沙耶丸の願いは我等全員の願いだ。
たまには上手いことを言うじゃないか、判官め。
その通り。今や有雪も心から少年が母と再会するのを願っていた。
こんな風に清らかで安らかな思いに満ちて眠るのは何年ぶりだろう?
だが、この夜、有雪が見た夢は今までで一番恐ろしい、身の毛のよだつものだった。




