キグルイ5 ★
あんな悪夢を見るくらいなら眠りたくはない。
そうは言っても、人間は眠らなければ持たない生き物である。
明け方、有雪はうつらうつらした。すると――
雪丸……
雪丸……
「?」
優しい声だな?
少し安心して、目を開けると一面の純白。全てを多い尽くす雪。
ああ、母者の言っていた、これが、穢れたものの上に降る、一切を浄化する雪?
思わず微苦笑する有雪だった。
無理だよ、母上。買被り過ぎじゃ。
荷が重過ぎる。俺にはこれほどの力はない。
(おや?)
美しい少女が雪の原に立って手招きしている。
傍に行くと、
「見て」
少女はヒラヒラと手を翳した。親指と中指、薬指をくっつける。
「何に見える?」
「……狐?」
「そうよ! そうよ!」
少女は嬉しそうに手を叩いた。
「狐は守り神。天の使者じゃ。いつも善い人間を護ってくれるぞ。ソレだけじゃない」
「ほう?」
「この狐の形で綱に掴まってごらん」
「そりゃ酷い! 3本指では力が入らぬ。すぐ落ちるぞ」
5本の指全部で縋るより無力だ。
「それでよい。それだから良い」
少女は朗らかに笑った。
「どうせ落ちる。ならば力を抜いて緩やかに世界をごらん」
少女は今一度親指と中指、薬指で狐を作るとコン、コ-ン、コン、と鳴いて見せた。
ははあ?
俺が狂うのを食い止めようとしているな?
全力を使い切るな。
常に三分の力で行け。テキトーに、いい加減に。
だが、今度ばかりはそれで通用するだろうか?
なあ、母者?
「また呼び立ててすまなかったな?」
心から申し訳なさそうに中原成澄は言った。
有雪が幾つもの夢を彷徨した夜が明けて、その日の昼前。
またしても使庁の早馬が一条堀川の田楽屋敷の門前に乗りつけた。
白烏は空へ飛ばし、有雪は拍車した。
そして、至った千本堀川の一角。
待っていた長身の検非違使、その精悍な顔に刻まれた苦悩の翳は濃い。
「だが、俺としては訊ねる相手は……」
咳払いをしてから、検非遺使尉は言い直した。
「頼れる人間はおまえしか思い浮かばなかった」
「――」
足下には焼け爛れた屍骸。
「何故だ? そして、どうやったら、こんな死に方ができる……?」
検非遺使は喘いだ。
「大体、場所が嫌だ」
剛毅なこの男にしては珍しい物言いだが、有雪にはその理由がすぐわかった。
この場所、宮内省に近い。そして、昨今話題の、夜な夜な鵺の啼き声がするという池にも。
平安末期のちょうどこの頃、帝位に在った近衛天皇は〈鵺〉という魔物に悩まされていた、と今に伝わる史書に記されている。
それら書物に拠ると、鵺とは頭が猿、尾が蛇と言う世にも奇妙な怪鳥である。丑の刻(午前2時)に限って身の毛もよだつ啼き声を響かせたとか。
「おい、まさか、これらの奇怪な死体が件の怪鳥と関わりがあるのではないよな?」
陰陽師の薄汚れた白衣を掴んで揺すぶる黒衣の検非違使。
「悪いな、俺にはわからぬ。ただわかっているのは――」
そこまで言って有雪は口を閉ざした。
「何だ? わかっているのは? いいから、言ってみろ!」
逞しい友の手を払い除けてから巷の陰陽師は重い口を開いた。
「これで終わりではない。こりゃ、まだまだ……ずっと続くぞ」
「やっぱりな!」
歯を食いしばって蛮絵の検非遺使は天を仰いだ。
苦境に陥った際、必ずする仕草――烏帽子に手をやりながら、
「俺は鈍い人間だがよ、有雪。俺もな、そんな気がしていた……」
その夜、また有雪は夢を見た。




