キグルイ4 ★
「起きろ、有雪! この似非陰陽師め!」
座敷で大鼾を掻いていた有雪。狂乱丸に枕にしている茵を蹴飛ばされて舌打ちした。 ※茵=座布団
「いいから、ほっといてくれ、狂乱丸。昨夜は判官と大いに語り明かしたのだ。眠らせろ」
「その判官から、使いが来ておる。すぐ来てくれだとさ!」
「?」
流石、衛門府官位持ち。れっきとした官人の検非遺使尉・中原成澄はこの日もとっくに定刻に使庁へ登庁していた。この辺りはグータラな巷の陰陽師とは雲泥の差である。 ※使庁=検非遺使庁
その立派な検非遺使が配下の衛士に馬までつけて迎えに来たとなると……
「はて? 何だろう? ひょっとして、早くも沙耶丸の母者が見つかったかな?」
至ってのんきに出かけた有雪だった。が――
事はそんな生易しいものではなかった。
有雪は戦慄した。
「これは……!」
「見た通りよ。昨夜、起こったことらしい」
場所は一条今出川の辻。
京師は平安京造営時より大路小路全ての道の両脇に側溝が設けられているが、その溝に半ば嵌るような状態で見つかった屍骸。
「身元は割れている。矢師の鹿郎。こやつ自身は鼻抓み者の良からぬ男だったとか。妻子には殴る蹴るの乱暴を常とし、夜間、出歩いていたのも、実は強盗を働いていたせいだと近隣の者が言っている。とはいえ、この死に様……」
既に幾度も記したように平安のこの時代、夜は禁足――今で言う『外出禁止令』が徹底していた。それを気にかけず出歩いていた剛毅な矢師の変わり果てた姿はどうだ。
「何故、おまえを呼んだと思う? この屍骸、腑に落ちぬ点がある」
一見、焼死と見える、が、俺が見てきた焼け死んだ人のそれとは違う、と検非遺使は言い切った。
「焼死者は全体に焼け焦げているものだ。だが、この屍骸はそうではない」
皮膚が爛れて焼けた部分とそうでない部分。
「敢えて言うならば――」
陰陽師がその先を継いだ。
「小さな炎を投げつけられたような?」
「そうじゃ! 俺もそう思う!」
手を打って頷く成澄。
「そして、一番奇怪なのは――火元となったものが何もないことさ」
要するに、何で焼けたのか、男を焼いたものが周囲に何一つ見つかっていないのだ。
「……当人は熱さに悶えて体を冷やそうと自ら側溝に逃げ込んだとも見える。どうだ?」
死骸の焼け爛れた部位を検めながら有雪は首を捻った。
「ううむ。俺も、こんなのは始めて見る」
「おまえもかよ?」
博覧強記の有雪なら何か知っているかと期待した成澄は落胆の息を吐いた。
「ならば仕方がない。まあ、この世には未知の事柄が多分にあるものだからなあ!」
謎の焼死体の爛れた皮膚に触れた指を白装束の裾に擦りつけながら有雪は胸の中で呟いた。
何だろう?
この、胸苦しさは?
ゾワゾワと総毛立つような嫌な感覚……
「ここは何処だ?」
使庁の馬を断り、徒歩で家路に着いた有雪。
馬だと白烏を肩に乗せられない。衆目を威かすために白烏はなくてはならないと日頃から思っている有雪である。
その白烏がいつまでたっても肩へ戻って来ない。変だな、と首を捻って――気がついた。
闇の中を歩いていた。
「森?」
いつの間に日が暮れた?
周り中、闇に塞がれて何も見えない。ただ木々の冷気を感じる。サワサワとなる枝の音。鼻腔を満たす清冽な緑の匂い。
「どうしてこんな処に迷い込んだ? おっと――」
有雪は目を凝らした。
ポッ、ポッ、ポッ……
足元に発火する小さな炎。
ポッ、ポッ、ポッ……
木々の根元の彼方此方で小さな火炎が次々に燃え上がった。
「何だ、これは?」
硬直する有雪に、次の瞬間、宙を過ぎってその小さな炎が飛んで来た!
(襲って来た?)
「馬鹿な……」
飛礫のごとく次々に飛来する炎たち。
メラメラと燃え盛る火勢は子供の笑い声に聞こえる――
「うわ? こいつら……やめろ! 来るな!」
溜まらず有雪、両手を振って襲い掛かる火炎を振り払いながらその場から逃げ出した。
だが、容赦なく炎は次から次に飛んで来る。
「え?」
更に恐ろしいことに、間近で見たその炎は、いつしか子供――赤子の手に変わっていた。
燃え盛る小さな手が体中にぶつかって来る。
「馬鹿な……やめろ! 来るなったら!」
拭っても、拭っても、自分めがけて飛んでくる真紅の小さな手。
やがて振り落とせなかった手が有雪の身体にしがみついたまま燃え出した。
肩が腰が膝が首が鼻がくすぶって炎上するその嫌な匂い――
「ぎゃあああ」
叫んで跳ね起きる。
夜具を掴んで震えている指。
ここは、確かに、見慣れた、田楽屋敷の自室だった。
「くそっ! 夢かよ?」
悪夢には慣れっこの巷の陰陽師・有雪だが。
今夜ばかりは全身、汗まみれだった。宛ら、今まで焼かれていたように脂汗が体を滴る。
有雪は立ち上がると両手で体中を叩いて見えない炎の手を振るい落とした。
「きっと、昼間あんな屍骸を見たせいだ……」
まだ明けきらない西の空。
庭に這い出すと有雪は井戸で火照ったその身を冷ました。
秋だというのに冷たい井戸の水を頭から何度も被る。
「ったく! 何だというのだ? 昼間、成澄に見せられた奇妙な焼死体に心が乗っ取られたのか? ええい、俺はそんなに軟ではないはず……」
その証拠に、今日までちゃんと生き延びて来たではないか!
物心つくとから人の見ないものを見る怪しい質だった。
とはいえ、これほどの不気味な思いをしたことはない。どんなものも飄々と受け流す術を身に着けたつもりなのに。
「ん?」
物音を聞いた気がして顔を上げる。
果たして、庭を横切る小さな影が見えた。
「……沙耶丸?」
今頃、一体何処から――
沙耶丸は田楽屋敷の表門からやって来たように見えた。
その小さな影は縁に飛び上がると寝所の方へ消えて行った。
この邸へ来て以来、母を捜す少年と狂乱丸、婆沙丸の田楽師兄弟が同じ室で寝ているのを有雪は知っている。
「ハハ……子供のことだ、厠へでも行っていたか?」
厠とは明らかに方向が違う。 ※厠=便所、トイレ
だが、有雪は敢えてそのことについて考えまいとした。
或いは、今見たこと全て、幻かも知れないではないか。
現に沙耶丸が田楽屋敷へやって来た初日、俺はあいつを二人も見ている。その上、先刻の夢でもわかるように、俺は今、頗る参っているのだから。
気狂い……?
まさにそれだ、気狂い。
その忌まわしい言葉が有雪の心を過ぎった、これが最初の瞬間だった。
夜の沙耶丸




