キグルイ1 ★
闇の中に響くけたたましい足音。パタ、パタ、パタ、パタ……
掠れた息遣い。ハア、ハア、ハア、ハア……
「待て、待てっ――」
「もう逃げられんぞ、諦めろ!」
「そうやって逃げ続けても、我等人買いを喜ばすだけじゃ! ホラ?」
「活きの良い獲物よのお? おまえが頑強で、健康で、元気なのはよおくわかった!」
「こりゃ、高く売れるぞ!」
「誰か……」
「さあ、もういいだろう。観念しな!」
追いついた一人に羽交い絞めにされる。挟み込むようにしてもう一人、麻袋を広げながら摺り寄って来た。
「こら、暴れるな! おとなしく――ぎゃあ!」
肩を掴んでいた手に思い切り噛み付くと、再び走り出す。
パタパタパタパタ……
ハアハアハアハア……
「くそっ! この餓鬼! 往生際の悪い奴だ!」
「誰か……誰か……助けて……!」
「馬鹿な。京師で、この時間、誰が助けてくれる?」
「そんな酔狂な輩、いるものか!」
ドン!
刹那、闇にぶつかった。
否、闇よりも更に濃い黒装束、蛮絵の文様――
「ここにいるさ!」
一斉に足を止めた賊をねめつけて、
「ほほう? 貴様ら京師に跋扈する悪名高い人買いかよ? ここで会ったのも他生の縁! 検非遺使・中原成澄が引導を渡してやろう!」
「げっ! 検非遺使……!?」
闇に閃くは月光にあらず。検非遺使の抜刀した〈衛府の太刀〉の凍れる鋒。
蟠る闇ともども一気に薙ぎ払って斬り捨てた。
「峰討ちじゃ。貴様らの血で大切な大太刀、穢してなるものかよ?」
成澄は爽やかに笑って、
「どれ、数は足りるかな?」
地面に落ちた袋を数えて順番に人買いたちに被せて行く。
「衛士が回収に来るまでこうしていろ。袋を被せられて運ばれた者の気分を存分に味わうが良いわ。おまえらが運ばれるのはこの世の地獄、左獄じゃ。さてと――」
小鳥のように胸に飛び込んで来たその小さな影の方に漸く目を向ける成澄だった。
年の頃は10歳前後。かむろ頭の可愛らしい少年である。 ※かむろ=おかっぱ
「命拾いしたな? だが、おまえもいけないぞ。京師に夜を告げる太鼓の音は聞いたろう? それを、たった一人で出歩くなんて。え?」
今しがた人買いどもの魔手から救い出したその少年、ゆっくりと崩折れる。
地面に昏倒する前に駆け寄って抱きとめた成澄、
「おい、しっかりしろ! 怪我を負っていたのか?」
「腹……」
「腹だと?」
検非遺使の腕の中で少年は呻いた。
「腹が減って……だめじゃ……死にそう……もう3日も食ってない」
「ええええ?」
これよりやや遅く、京師は一条皮堂の辺り。
油小路を上ってやがて見えてくる橋は最近架け替えられたばかりだ。切り出した木の香も馨しいその新橋の袂を鼻歌を歌いながらやって来るのは巷の陰陽師・有雪である。
無位無官、薄汚れた白装束で束髪の髪を背中に垂らしている。
無論、冠も無し。平安の末期、京師の、特に一条橋界隈にはこの種の胡乱な陰陽師が掃いて捨てるほどいた。
但しこの陰陽師すこぶる美男である。
日中は肩に止まらせている白烏はこの時刻はいない。自室の襤褸布の上でとっくに寝入っているはず。陰陽師は仲間の祝言の宴に強引に潜り込んだ帰りだった。
「♪東屋の~女とも終に成らざりける~と。ああ、それにしてもこの世にタダ酒ほど美味いものは無いな!――ん?」
美貌の目を眇めて見つめるその先、橋の中央に人影がある。
被衣姿の女。
「遊び女か」
気にせず有雪はスタスタ歩き続けた。
「もうし、そこな御方……」
擦れ違ったその時、女は手を伸ばして有雪の袖を掴んだ。
「無駄じゃ、無駄じゃ。俺に声をかけたところで、金がない。酒だって奢りでしか飲めない身だぞ」
「お願いがございます」
掴んだ手に一層力を込めて女は言うのだ。
「私を訪ねて遥々やって来た愛しい我が子がこの広い京師に迷っておりまする」
「はあ?」
「どうかどうか、貴方様に我が子を私の元まで連れて来て欲しいのです」
「悪いが、断る」
きっぱりと有雪は応えた。
「その種の人助けは俺の趣味じゃない。そんなことなら判官にでも頼むことだ。黒装束の蛮絵で一目でそれとわかるからそいつに声を掛けな。その男なら親身になってくれるはず。じゃあな!」
手を振り払おうとして有雪はギョッとした。
「!」
自分を掴んでいる女の手をこの時になって初めて見た。
「おまえ……?」
煌びやかな被衣、艶やかな袿の袖の中、その手は老いさらばえて骨ばった、まさに老婆のソレだった!
「我が子といったな、ばあ様?」
有雪は苦笑した。
「あんたの齢なら、〝我が子〟は俺より年上だろうに? ああ、そうか――」
ここでピンとくる。
「ぼけてるんだな?」
さもありなん。年に似合わぬ派手な袿を纏ってこんなところを彷徨っているのからしてわかるというもの。
だいたい京師に住む全うな人間なら出歩く時刻ではない。
夜の京師は盗賊や人買い、でなければ人外の魑魅魍魎の天下である。
(哀れにな。)
先刻とは違う優しい声で有雪は言った。
「早いとこ家に帰りな、ばあ様。あんたは夢を見ているんだよ。あんたの〝我が子〟はきっと今時分、あんたの家にいるさ。いや、子供の方があんたを探してるだろうよ」
「いいえ、いいえ」
老婆は激しく首を振った。その顔も皺だらけで紫斑が浮いている。
「私たちは離れ離れになって久しいのです。それが、とうとう、今、あの子は、私を慕ってここまでやって来た――」
身を捩り息も絶え絶えに続けて、
「ですから、どうぞ、私の元へ、早くあの子を連れて来てくださいませ」
口調は瑞々しい若い母そのもの。
それが余計に悲しい。
「あの子は引き裂かれた仕打ちを恨んでおります。憎しみに我を忘れて間違いを犯す前に、何卒、早く、私の元へ。お願い、お願いです――」
狂ったように有雪の腕に爪を立て老女は懇願した。
「私はもうここより遠くへは動けぬ身なれば」
「――」
人は齢を重ねると過ごして来た年月が入り乱れ曖昧模糊となるとか。
今、眼前の老婆の頭の中を去来する光景は若かりし日の出来事。迷子になった幼い我が子の思い出なのだろう。よほど強烈に心に刻まれていると見える。
有雪は自分の腕から老木のような老婆の手を静かに引き剥がした。
「悪いが、俺はあんたの力にはなれそうにないよ、ばあ様。早く家へ……あんたの正しい居場所に帰った方がいい」
「あ! どうかどうか――」
追って縋ろうとする老婆からすばやく身を翻して立ち去る有雪だった。
折角の酒が冷めてしまった。
肌を粟立てる冷たい風が橋の上を吹き過ぎて行く。
「母親というものは……」
思わず一人呟いた。
あんな歳になってもまだ我が子を探すものなのか?
道に迷って帰って来ない我が子を?
実際、今現在、迷っているのは己自身だというのによ?
その後、口を引き結んだままいくつか辻を廻り、やがて見えてきた懐かしの邸は――
一条堀川の通称〈田楽屋敷〉である。
「おや?」
皓皓と明かりの灯るその邸を遠目に見て有雪は眉を寄せた。
「いつもと違っているな?」
言った後で自ら頷いた。
「フン? さては客人が来ておるな?」
何処までも胡散臭いこの陰陽師、実は自分でも手に負えない摩訶不思議な力があった。そんな男の目に見慣れた田楽屋敷が今宵はひどく違って見える。
お馴染みの面子――主の田楽師兄弟や熱血の検非遺使尉――以外の人間が加わると、その気配で風景が微妙に違って見えるようだ。
靄がかかったように霞んだり、グニャリとしたり、反対にキリリと冴え渡ったり。
屋敷を眺めながら有雪は北叟笑んだ。
「客人なら連中は必ず宴を催すから……こりゃ僥倖だ! 今宵また、しこたまタダ酒が飲めるぞ!」




