呪術師5
猿が頻りに騒いでいる。
不審に思った男がその場へ行ってみるとパパッと逃げ散った猿たち。
榧の大樹の根元に襤褸布に包まれた赤子がいた。
「捨て子かよ?」
赤子は己の境遇も知らずスヤスヤと眠っていた。
「ほう? こりゃ、大層可愛らしいマシラだな!」
「私を拾ってくださった父上様の名は紀の国の、唐の郷の遠矢と言って、邑一番の富裕の豪農でした。代々邑長を務めるお家柄。何よりそのお優しいお人柄で邑中の人々に慕われていました。 その奥方様の浅緋様がまた観音様の生まれ変わりではないかと思われるほど慈愛に満ちたお美しいお人で、私はお二人の元で何不自由なく幸せに暮らしました。お二人は捨て子だった私をそれはそれは可愛がってくださいました」
今思い返しても、夢のように幸福な日々だった、とマシラは言った。
だが、この黄金の日々は突然終わりを告げた。
遠矢が病を発して亡くなったのだ。
あまりにあっけない死。
しかし、不幸はこれで終わらなかった。
広い田畑を有していたことも災いした。
邑長でもあった遠矢は毎年、郷内の貧しい農民に次の年の稲を自分が肩代わりして買い与えていたのだが、突然残された妻と年若い息子では手に余った。
〈公〉ではない悪質な〈私〉の稲貸しに騙されて、気がつくと、所有する田畑の全てを奪い取られてしまった――
「そんな馬鹿な!」
「たった一年で?」
仰天する双子たち。
が、成澄は驚かなかった。
官人である検非遺使尉は知っていた。この稲を貸し出す制度を〈出挙〉と言うのだが、この制度を悪用して田畑を横取りする悪辣なやり方は今や全国津津浦浦で見られた。
〈公〉の出挙すら借りられない貧農に言葉巧みに高利な稲を貸し出す〈私〉の稲貸し。
当然返済できないので農民は秋には育てた稲ごと田を没収されてしまう。土地を失った農民は浮浪の民となり京師へ流れ着く。昨今、都で強盗などして捕まる大半が実はその種の哀れな農民だった。
一方、田畑は益々富裕の者達が独占する。この流れが中世の歴史を支配する荘園制度へと繋がって行くのである。
「国衙に訴えなかったのか? どうみても汚いやり口だぞ?」
「明らかに騙されている!」 ※国衙=地方の役所
憤慨する双子に、
「無理だろうな?」
夜具の中で陰陽師が引き攣った笑いを漏らした。
「言ってやれ、成澄。その国司が〈公〉の出挙も〈私〉の出挙も両方管理していると」
「どういうことだ?」
「表では〈公〉の稲を貸し出し、裏では〈私〉の、馬鹿高い利率の稲を貸し付けてるのさ。一番儲けているのは官人どもだ」
地方に派遣された国司以下史生に至るまで〈官人〉たちはそうやって己の私腹を肥やしている。中央も見て見ぬ振りで最早どうすることもできない処まで来ていた。むしろやった者勝ち、権門勢家競って地方の土地を我が物としている現状なのだ。
「土地を奪われた母上様は新しい持ち主様の配慮で召使として邸に置いてもらったのですが病を得て……亡くなりました」
その下りをマシラは早口に告げた。
聞かれたくないこと言いたくないことがあるのを一同は察した。
「父上様も母上様もいなくなって、土地も住む家もない私達兄妹は京師を目指しました。都ならこんな私たちでも新しい暮らしを始められる気がしたのです」
こうして京の都に昇ってくる途上で一時旅を共にした散楽師の集団から習い憶えたのが今回の術だった。
散楽者たちと別れてから、道々で試みにやってみると、生来器用だったせいもあって、葦丸のこの芸は思いのほか人気を博した。最初は食べ物を分けてもらった返礼に披露していたが面白いように鳥目を投げ与えられた。
無事都に着いて、流石に東の市では通用するまいと思った。とはいえ、他に稼げる目途もなかったのでせめて、一、二回でもと実演したところ――あれよあれよと評判を呼んで、現在の人気振りである。
「でも、私は恐ろしくてたまりませんでした」
マシラは声を詰まらせた。
「『もっと人を呼んで来い』と兄様に命じられるままに、辻々で宣伝などしていましたが気が気ではありませんでした。だって、あんなもの――こちらの陰陽師様が見抜かれた通り、所詮、散楽の芸なんです。呪術でも何でもない」
そのことがいつバレるかと生きた心地がしなかった、と娘は明かした。
それで、昨夜、有雪が同様の術を披露し種を暴露したのを菖蒲の陰から見て、終に恐れたことが現実になったと絶望した。その際マシラの頭を過ぎったのは、とにかく一刻も早く陰陽師の口を封じること、それだけだった。
「もう充分すぎるほど蓄えもできたので、早く邦へ帰ろうと、兄様に私は何度も懇願して来ました。失った土地を買い戻して、また平穏に暮らしたい。それだけが私の願いです」
言葉を切ると娘は言い直した。
「……いえ、願いでした」
横臥する包帯姿の陰陽師の傍へマシラはにじり寄った。
「お命を奪おうとして、本当に申し訳ありませんでした。こんな恐ろしい真似をしでかしたからには、私は獄舎に繋がれて当然です。どうぞ、即刻、絡め捕ってください。でも、葦丸様は何も知りません。私が勝手にやったことですから」
白い膝の前で指を揃えるとマシラは床にひれ伏して謝罪した。
「お願いです。どうか、どうか、あの方は……葦丸様は故郷へお帰しください!」
(あ、やっぱりな?)
話の途中で婆沙丸には薄々気づいていたことがある。
京師一と言われる、素晴らしい歌を歌う田楽師とは思えない掠れた声で婆沙丸は訊いた。
「……アシタバは、おまえの本当の兄じゃないんだね?」
「はい。さっきお話しましたが、私は葦丸様のお父上に拾われた身です。以来、父上様、母上様にわけ隔てなく娘として可愛がってもらいました。私も葦丸様を本当の兄としてお慕いしてきました」
「そこは嘘だろう?」
冷徹な狂乱丸は容赦なく指摘した。
「兄ではない。兄以上に慕っているのだろう?」
可愛らしいマシラは、この時ばかりは本当の猿のように真っ赤に顔を染めた。
「はい。おっしゃる通りでございます……」
「救いようのない人の良さだな?」
灯台の火が揺らめく座敷。 ※灯台=燭台、灯明
心底呆れ果てて首を振りながら狂乱丸は呟いた。
「全くだ。思い人のある娘を優しく送って行くとは、婆沙丸の奴……」
「いや、おまえのことだよ、成澄?」
検非遺使の杯に酒を注ぎながらクックと笑う。
「仮にも、人を斬りつけて怪我を負わせた人間を不問に処すとは……!」
「言われたな、判官殿!」
「そして、おまえもな、有雪?」
いつの間にか夜具を抜け出て背後にやって来ていた橋下の陰陽師に、振り返りもせずに婆沙丸は言った。
「せめて薬代くらい請求するべきだったぞ?」
「俺の薬は酒だからな。だが、まさか、あの場で酒代をくれとは言えないだろう?」
「チェ、どうのこうの言って……結局、皆、優しいんだから!」
有雪が差し出した杯を無情にも狂乱丸は奪い取った。
「今日は飲まさぬからな! おまえは夜具へ戻ってとっとと寝ろ!」
「それはない! 傷がよ、痛くて眠れないのだ! さあ、早く〝痛み止め〟を……一番よく効く酒を飲ませてくれ、狂乱丸! 意地悪するなよ?」
「だめと言ったら、だめじゃ!」
田楽師の兄は嘯いた。
「一人くらい優しくない人間がいてもいいさ! そうだろう?」




