水の精 15
「凶器のことを忘れていた……!」
咄嗟に婆沙丸は叫んだ。
(この後に及んでツメが甘かった……!)
兄者も兄者じゃ! 縄の謎解きではあれほど拘ってあれこれシツコク追求してきたのに、よりによって誰も──兄者も成澄も、当の俺も──凶器については見逃していた!
思えばナミは刃物の類を一切持っていなかったのだから、その点に早く気づいていれば〈水の精〉が他にいることを察知できたはずだ。
だが、もう遅い、遅過ぎる──
一閃、白刃が煌めいて、婆沙丸は右肩に鋭い痛みを覚えた。
「クッ……」
「婆沙丸!」
それまで凍りついたように身動ぎもなかったナミが一声叫んで崩折れた婆沙丸に飛びつく。
「おお? そうじゃ、口封じが先じゃ!」
一転、公達の刃は娘に向けられた。
「私の遊び……今宵の獲物は美しい田楽師。卑しい遊女は川にでも打ち捨ててやる……!」
追われるままにナミは堀川の細い流れに滑り落ちた。
容赦なく藤原雅能は刀子を振って迫る。
水飛沫の音を聞いて必死で体を起こした婆沙丸、間一髪、ナミと公達の間にその身を割り込ませた。
「早く逃げろ、ナミ!」
刃を握る貴人の腕を押さえながら、
「俺がこうしている間に……早く……!」
「で、でも」
「俺のことはいい。だが、おまえは……おまえだけは……」
「婆沙丸……」
「生きろ、ナミ!」
「い、いや────……!」
何度思い返しても婆沙丸はそれから起こった一連の事柄を上手く言葉にすることができない。
藤原雅能は見た目よりもずっと力があった。
既に肩に一太刀浴びている婆沙丸は、渾身の力で食らいついていたが、零れる汗、滴る血に、持ちこたえられず、もはやここまでと観念した。
その時、背後で水柱がが上がった……
体がフッと浮いて、激流に飲み込まれた……
──何度繰り返そうと、つまりはそういう表現になる。
(これが津波と言うものか?)
川ですら泳いだ経験がなく、まして海など見たこともなかった山国生まれの田楽師は、虚しく拙い言葉を列挙するより他ないのだ。
あの時、凄まじい水飛沫に体を持ち上げられて吹き飛ばされた。
その水の出処やそれが起こった原因など考える余裕はなくて、ただもう何かにしがみつこうとあがいたことまでは朧ろに憶えている。
実際、何かを掴んだ気がする。
(あれは何だったろう? 河原の石……?)
それを握り締めたまま、夜空なのか濁流なのか分かつ術もない暗黒の奈落の底へ恐ろしい勢いで吸い込まれて行った──
「おお、気がついたぞ!」
「婆沙丸!」
目を開けるとそこに自分と同じ顔が心配そうに覗き込んでいるのが見えた。
「……兄者?」
起き上がろうとした途端、右肩に激痛が走って息を呑む。
「ウッ……」
「無理をするな。今、戸板を取りにやったから」
検非遺使が慣れた手つきで傷を縛っている最中だった。
「ハッ、ナミは何処だ? もちろん、ナミも無事なんだろうな?」
ぐるりを取り囲んでいる仲間たちの顔は一様に困惑している。
「それから、雅能様はどうした? そうか! 成澄、あんたが取り押さえてくれたんだな?」
「雅能様、だと?」
逆に検非遺使は吃驚して聞き返した。
「その雅能とは例の──〈あははの辻〉で襲われて命拾いした大納言の令息のことか? おまえ、あの公達と一緒だったのか? それはまたどうして?」
堪えきれずに兄も割って入った。
「一体、昨夜、ここで何があったと言うんだ?」
それこそ、婆沙丸が聞きたいことだった。
兄と検非遺使が交互に語ったのは──
昨夜は、あの〈永長の大田楽〉に勝るとも劣らない、きっと後世の語り草になるであろう〈保延の夜田楽〉の成功に大いに満足して一条堀川の屋敷に引き上げて来た。もちろん、婆沙丸と遊女の逃亡も上手く行ったものと確信した。
それでそのまま夜を徹して祝宴を張っていたところ、夜明け頃、牛飼い童が『堀川沿いに婆沙丸が倒れている』と駆け込んで来た。
酔いも醒めぬままに半信半疑で出向いて、果たして、川の縁で血を流して昏倒している婆沙丸を発見したというわけだ。
一方、そこに駆けつけたものは誰一人として、続けて婆沙丸が語った、水柱が上がり、一気に濁流に押し流されたと言う体験談を本気にはしなかった。
皆、婆沙丸は夢を見ていたのではないかと怪しむばかり。
とはいえ、どんなに捜しても付近に、一緒に逃げた遊女の姿は見当たらず、そうこうする内に、中御門富小路に住する公卿の息子が庚申の夜、田楽見物に出たきり行方知れずになったという噂が漏れ伝わるに及んで――
件の夜、何事かあったらしい、と言うことは多少なりとも信じるようになった。
直衣に指貫姿の藤原雅能の死骸が鴨川は上鳥羽口でプカプカ浮いているのが見つかったのは、それから更に数日後のことであった。
遊女の方はついに見つからなかった。