眠り姫13 ★
「ギャーーーーーーーーーーー……」
その瞬間、その場にいた一同は確かに、見た。
霧のようなものが姫の体から迸って、揺らぐと、形になった。
尖った耳と細い体、長い尻尾……
と、見る間に、氷が砕け散るごとく、爆ぜて、消えた。
皆、その形が何であるか知っていた。
「あれは──」
「猫?」
「ハッ、姫!」
我に返った蔵人所陰陽師、結界から飛び出して姫に駆け寄る。
姫は手鞠を抱いたまま床に倒れていた。
目を閉じて眠っている。
だが、その眠りは、明らかに普通の眠りに見えた。
可愛らしい寝息を立てて上下する胸。それに合わせて鞠も揺れている。
「──」
そっと抱え上げると、帝の陰陽師は御帳台まで静かに姫を運んだ。
「姫君が眠りに取り憑かれた六月十七日の朝、あったのはこういうことです」
姫に使える女房の小郷が明かした話はこうである。
その朝、姫の住す内裏の上局の渡殿に、姫が平生から可愛がっている猫が血塗れで倒れていた。
夜半、外へ出て、野犬に襲われたらしく、傷だらけの無残な姿だった。
それでも、姫の元へ帰ろうとしたのだろう。姫の室まで、あと少しの距離だった。
しかも、まだ、微かに息はあった。
だが、あまりの悍ましい姿に、姫に見せるのを女房たちは躊躇した。
それこそ、手中の珠のごとく大切に育てられた三の宮の姫君である。
こんな恐ろしいものを見せるぐらいなら、いなくなったとお教えしたほうが良い。
そういうことに決まって、その際、血だらけの猫の始末を命じられたのが、一番歳の若い小郷だった。
と言っても、警護している衛士に渡せばよかったまでのこと。
だが──
常日頃、姫の一番近くにいて一緒に遊んでいる小郷自身、この猫に愛着があった。
あまりに哀れに思って、引き裂かれたその体を、姫から下げられた小袿に包み、姫の室の床下に置いたのだ。
猫の遊び道具だった鞠の方は別の女房が処分した。
それを見るたび、猫のことを思い出して姫が悲しい思いに囚われては、と慮ったからである。
皆、良かれと思って、善意から行ったことだった。
後日、改めて、床下から取り出した姫の愛猫は、婆沙丸が与えた手鞠と一緒に、蔵人所陰陽師の監督の元、丁重に埋められた。
「本当に? 今回の騒動は、その姫の飼い猫が引き起こしたものだったのか?」
一条堀川の田楽屋敷。
主である兄の田楽師の問いに官人陰陽師は首を振った。
「私もはっきりとはわからぬ。だが、そう考えれば辻褄は合う」
最期に一目なりとも姫に会いたがった猫が、それを果たせず、恨みを抱いたまま死んで、
会いたい、会いたいと言う、その切実な思い故、姫と一体化してしまった?
その証拠と言ってはなんだが、
〈眠っている姫〉〈夢の中で会った姫〉は、どう見ても猫自身だった気がする。
だから、あんなに、犬飼の連れた犬を怖がったのだ。
一方、時折、覚醒した際の、いわゆる〈半覚醒の姫〉は姫本人に近かった。
『たまはどこじゃ?』
今回、偶々〈たま〉が重なって、ややこしくなったせいもある。
布留佳樹は認めた。
憑依した猫があれほど求めた〈たま〉は鞠のこと。
片や、姫が口にしたのは、愛猫の名前。
姫の猫はたまという名だった……!
「では、猫をきちんと姫に会わせ、それから愛用の鞠も一緒に埋めてやっていれば、今回の騒動は起こらなかったってことか?」
重ねて、訊く理論派の狂乱丸。
布留は正直に答えた。
「さあなあ。それも、わからぬ」
人の心の深淵は常に謎である。
いや、獣の心も?
「はっきり言えるのは──今回の一番の功労者は婆沙丸だ!」
成澄が叫んだ。
右目に包帯を巻いているが、隻眼の検非遺使も中々乙なものだ、とこっそり狂乱丸は思っている。
命懸けで俺(婆沙丸もだが)を庇ってくれたし。
擦り寄って、蛮絵の袖を引くと喉を鳴らした。
「なあ、成澄? 俺は惚れ直したぞ……」
「それにしてもっ! よく、あんなもの持っていたものだ、婆沙丸はよ!」
更に声を大きくして叫ぶ検非遺使である。
受けて、橋下の陰陽師。
「全くだ! 普通、あの場面で、誰が手鞠なんぞ持っているよ?」
「あれは俺のじゃない」
弟の田楽師は大いに照れた。
「最近、仲良くなった娘が河原に落として行ったのさ。
返してやろうと思って、忘れぬようずっと持ち歩いていたんだ」
「婆沙丸──!」
「あーそ-ぼー!」
「噂をすれば、これじゃ」
「人気者だな、婆沙?」
「そうさ。だけど、何故だろう?」
腰を上げつつ婆沙丸は首を傾げた。
「あの年頃までは、俺は兄者よりモテるんだけどなあ……!」
どっと起こる笑いの渦。
庭に降りると、子供たちの輪の中にあの手鞠の持ち主を見つけた。
「悪かったなあ、すず? おまえの鞠、返そうと思ったんだが──
欲しがったコに、つい、くれてやってしまった」
「そんなの構わないよ!」
笑顔が返って来た。
明るい声で少女は笑うのだ。
「だって、私、もうあれで一人で遊ばなくってもいいもの。
ほら! 友達ができたから!」
「友か……」
縁の柱に凭れて、有雪が呟いた。
「やっぱり、作っておくに限る……」
「何だ、何だ? やけにしおらしいな、有雪?」
成澄も出て来た。
「例の、鼻風邪のせいか?」
「ほっとけ。風邪なら、ピタリと治ったわ」
「ふーん? それにしても──いつもの毒気がないぞ?
ははあ? 寂しいのなら、今からだって遅くない。俺たちがいつだって友達になってやろう。
なあ、佳樹?」
「馴れ馴れしく呼ぶな。私は帝の陰陽師である」
毎回、博覧強記で薀蓄を垂れないと気が済まない橋下の陰陽師が、今回は何やらこんな感傷的でしんみりした調子なので──
代わって作者が記すほかなくなったが。
〈眠り姫〉に取り憑いた〈穢悪しき疫鬼〉が猫であることに、一同もっと早く、容易に気づくべきだった。
何故なら、猫の語源は〝眠る子〟から来ているから。
ねむるこ……が縮まって……ねるこ……ねこ……!
それともう一つ。
懸命なる読者の皆様はお気づきですね?
どうも、有雪は猫アレルギーのようです。
さしもの陰陽師も(蔵人所も橋下も)アレルギーを調伏する術は持たなかったようで……
☆ 姫君の愛猫
猫は愛するだけ……
☆ そうすい様からいただいた
お洒落な三毛のたまちゃんです!
THANKS!
これで安らかに眠ってくれる。
──── 了 ────
☆もう一つ、お気づきですね?
本編〈眠り姫5〉の目隠し鬼の挿絵の中にすずの落とした玩具が……。
☆最後までお付き合いくださりありがとうございました!
ご安心ください。次回は、
〝毒気のある〟本来の橋下の陰陽師が帰って来ます。(その予定)




