水の精 13
五月二十日は庚申の夜であった。
この日は人間の身中に住む〈三尸〉という蟲が宿主の悪行を天帝に告げに行くので、それを見張って夜通し起きている習慣が広く京師に伝わっていた。
深更── ※深更=真夜中
大内裏は藻璧門の辺りで突如、凄まじい音が鳴り響いた。
高声、歓声、板を打ち鳴らす音……!
簓に編木子、鉦、太鼓、鼓、笛、銅拍子……!
言わずと知れた〈田楽的狂乱婆沙〉の出現である。
信心深い都人は、これぞ世に伝え聞く百鬼夜行かと恐れ慄いて、門を固く閉ざし屋内に逃げ籠った。
片や、モノを知る都人は流行りのそれ、〈夜田楽〉と察したらしく、いざ参加せんとどっと通りへ繰り出して来た。
これら衆生を飲み込んで喧騒はますます激しくなるばかり。
京師の治安を預かる検非遺使も一斉に現場に急行した。
平生、従者を厭う成澄もこの夜ばかりは火長・看督長以下、配下の衛士を引き連れて黒馬を駆って馳せ参じた。
衛士たちの翳す松明で大宮大路は昼と見紛う明るさだ。
「おう! これは……!」
先の正月の修二会のごとく自身が加わって舞い歌えないのが口惜しくて、馬上、成澄は思わず歯噛みした。
それほどの気宇壮大な狂乱ぶり……!
まさにその渦の中心にいるのが狂乱丸に率いられた新座一門の田楽師たち、そして、懇意の異形の仲間達だ。
声聞師、巷の陰陽師、歩き巫女は言うに及ばず、俗に呼ばれるところの河原者、傀儡師に清目に放免……常日頃、蔑まれる日陰者の朋輩一同、憂さを晴らすべく相集った次第。
『百人は欲しい』と言った婆沙丸だったがそれを遥かに凌駕する人数が、今宵、我も我もと駆けつけてくれたのだ。
取り締まる側の成澄も予てからの示し合わせ通り、焚きつけるように立ち回ったので騒動は静まる気配がない。遂に院御所や里内裏の殿上人まで見物に出て来た。
その中にはよほど慌てたと見えて烏帽子を被っていなかったり、裸足の者までいた。
そうこうする内にも田楽の人波は膨張し続け、うねりは高倉通りから東洞院、二条大路と溢れて、地震のごとく地響きしつつ、とうとう礫まで飛び交う事態となった。
さて──
かかる一帯が狂乱すればするほど、そこ以外の場所は闇に沈むのが道理。
その完璧な闇の中、一条は戻り橋の袂に婆沙丸はナミの手を引いて立っていた。
風に乗って兄たちの繰り出す喧騒が怒涛のように伝わって来る。
「な?」
細工は流流、とばかり振り返った婆沙丸。
「俺が言った通りだろ、ナミ? これで今夜、京師中の全ての耳目はあそこ一点に集まる。それ以外はガラ空きじゃ!」
万全を期して逃走経路は堀川小路を選んだ。これは、水の側が落ち着くというナミを思いやってのこと。ここから真っ直ぐ東の市を駆け下るのだ。
「婆沙丸、私、なんと礼を言っていいか──」
「水臭いことを言うな。礼などいらぬ」
「でも、本当に良いのか? 私なんかのためにこうまでしてくれて……」
眼前の田楽師は娘が初めて見る地味な朽葉色の水干姿だった。
「田楽師さえやめていいなんて……」
弟が再び京師に戻らないことを双子の兄は察していた。
昨夜、夜田楽の成功と旅の無事を祈り酌み交わした餞の宴で、狂乱丸は言った。
『何も言うな、婆沙丸。わかっている。後の始末は俺と成澄で全て上手くやるさ』
『兄者……』
横を向いた兄の頬に燦めくものがあった。
『それにしても──有雪の奴! 返す返すも腹が立つ。あいつの卜した〈美しい出会い〉は俺にとっては〈悲しい別れ〉ではないかよ? だが……こうなったら京師一の田楽師、この狂乱丸の名にかけて意地でも盛大な〈美しい別れ〉に仕立ててみせよう!』
それから、兄はこうも言った。
『婆沙丸、おまえは器用でどんな芸もすぐ憶えた。だから、海辺に行けば行ったで、漁や船乗りの技もすぐ身につくだろうよ。俺は何の心配もしていないぞ』
ナミに目を戻すと頻りに腕輪をまさぐっている。
「これにも礼を言ったところじゃ」
「そうだな。元を正せば全てはそのお守りのおかげだものな!」
あの日夕焼けの端の上で二人を出会わせてくれた……!
だが、これからは、と婆沙丸は思うのだ。もうそんなものに頼らなくてもよいぞ。俺が一生おまえを守ってやる……!
「さあ、行くぞ、ナミ。道は長い」
「はい」
二人は闇の中に一歩踏み出した。
恐怖はなかった。真っ暗だが闇が夜明けを孕んでいると知っていたから。
闇のこの黒は無ではない。種子の中の黒。明日の実りを約束する、ぎっしりと詰まった希望の黒だ……!
「よし、走れ──!」