小蕾 5
「ご自邸の庭で田楽……ですか?」
ここは執政、悪左府の名で知られる藤原頼長の邸。
いくら検非遺使尉が付き添っているとは言え、田楽師風情を邸内に招き入れるのも異例なら、口にした要望も異例中の異例だった。
来る賀茂の祭りの日にこの邸の庭で田楽を披露して欲しいと言うのだ。
「京師随一と評判の田楽、この目でじっくりと味わってみたくなってな」
実はこの頼長と田楽師たちは過去、数度の禍根があった。
今回、頼長自身、その修復の気持ちがあるのかも知れない。
芸の披露に関しては狂乱丸の側にも拘りはなかった。
『求められる限り、そこが何処であろうと出かけて、常に最高の芸を披露すべし』
これが先代師匠・犬王の教えである。
「光栄の限りです、頼長様。この狂乱丸以下、犬王一座、左府様の御庭にて力の限り舞い、歌わせていただきましょう……!」
「良かったな、狂乱丸! 頼長殿の前で舞ったという噂が広まれば、また一段と名声が上がるぞ!」
帰り道、同伴した成澄も誇らしげだった。
「ところで、足の方は大丈夫なのか? 祭日までには治りそうか?」
「あ、イタタタタ……」
途端に呻き声を上げる狂乱丸。
「ダメじゃ、また疼きだした。この調子ではひょっとしたら当日までに治らないかも。だから──」
ちゃっかり、流し目をくれる田楽師。
「帰り道はおぶってくれぬか、成澄? イタタタタ……」
検非遺使は地面に膝を着くと蛮絵の広い背を向けた。
「しようがない。ホラ!」
田楽屋敷へ帰るやいなや、ウキウキ飛び跳ねて自室に入った狂乱丸であった。
「?」
文机の上に文を見つけた。
とりかえばや おきのうへ このぬのを
はるのその くれないにおう しょうらいの
かなわぬおもい とわぬ きみはも
(私の変わらぬ恋心をとうとう貴方様は聞き届けてはくれませんでしたね?)
いかにも、貴人の姫らしい歌だった。
「〝とりかえばや〟か……」
すり替わっていた自分たちのことを言っているのだと即座に狂乱丸は理解した。
続く、〝おきのうへ このぬのを〟の意味は不明だが。
文が記されているのは薄紙で布ではない。
きっと枕詞か何かなのだろう。狂乱丸は声に出して笑った。
「フン、田楽師に返歌を期待したって無理だぞ、姫? 諦めろ」
翌日から、芳心丸の姿も田楽屋敷から消えた。
四月は末、いよいよ賀茂の大祭の日である。
楽器・装束、万端整えて、都大路を練り歩いた後、今年ばかりは狂乱丸一行は列を離れて時の執政・左大臣藤原頼長の邸へ向かった。
大きな祭日はいつもそうだが。
その日、京師は朝から、曰く言い難い昂ぶりと熱気に包まれていた。
目には見えないものの、その興奮は異様な緊張を孕み、膨張し続けている。
大路小路を隈なく巡回する検非遺使の成澄は肌でその嫌な空気を感じ取った。
(これは……いかん。〈印字打ち〉が何時何処で始まっても不思議ではないぞ?)
今年は、狂乱丸たちの一座が早々に往来から引き上げたことを成澄は天に感謝した。
贔屓の田楽師たちが危険な目に遭うのを恐れたのである。
今をときめく藤原摂関家の寵児・頼長の邸は、言わずもがな、京師でも屈指の豪邸だった。
その庭に招き入れられた田楽師の一行は田楽新座を起こした犬王の直系、率いるのは歳は若いが芸に秀でた美しい双子の田楽師、狂乱・婆沙の兄弟である。
綾羅錦繍の煌びやかなその姿を間近で見ようと、広い庭は舎人や郎党、家司とその家族たちで溢れかえっている。主・頼長の今日だけの特別の計らいだった。
邸の方へ目を転じれば、階付近にはいずれ劣らぬ美々しい随身たち。廂の間に列なるは匂うような女房たち。宛ら絵巻から零れ出たかのように春の陽に燦ざめいている。
その奥、御簾の影には、北の方や姫君、若君たちが座しておられるのだろう。
「お集まりの皆々様に言祝ぎを!
いざや、我等の舞いと歌……存分にご堪能あれ……!」
狂乱丸・婆沙丸以下、一座の田楽師は犬王伝授の妖しくも豪奢な田楽の芸を惜しみなく披露した。
さて。その演目も酣という、まさにその時だった。
思い返しても、何故かその一瞬だけ、地上の全ての音が消え失せた気がする。
澄み切った静寂の中、唯一聞こえたのは、御簾の揺れる音──
そして、何かが風を切る音──
「狂乱丸様っ!」
姫君は莟紅梅の袿の脱げるのも厭わず、御簾を揺らして飛び出して来た。
そのまま、庭で舞う田楽師、編木子を奏でる狂乱丸に突進した。
渾身の力で胸の中に飛び込む。
「?」
咄嗟のことで狂乱丸は支えきれなかった。
花を飾った籣笠を飛ばして、二人揃って転倒した。
鈍い音が走る。
人が地に倒れた音ではない。
──飛礫だ。
祭りにつきものの〈印字打ち〉が往来では始まっていた。
その流れ弾が、左大臣の邸の高い築地塀を超えて凄い勢いで庭に飛び込んで来たのだ──
〈印字打ち〉とは飛礫合戦のことである。
中世、祭りの際、興奮した群集の内で自然発生的に起こっては多数の死傷者を出した。
これを禁ずる法令が度々出されたものの欲求不満を解消する〝庶民の遊戯〟として流行し取り締まるのは容易ではなかった。現代にその名残を残す一番近いものは〈雪合戦〉であろう。
幸いなことに、今回、道を逸れた魔弾は誰にも当たらなかった。
左大臣の広大な庭の榧の木に当たって、地面に落ちた。但し──
姫が激突しなければ……
姫もろとも倒れ込まなかったなら……
飛礫は狂乱丸に当たっていただろう。
榧の木は狂乱丸の真後ろにあり、抉られた幹はちょうどその頭の高さだった。
「ゲッ……」
婆沙丸には確かにそう見えた。
その事実を知った瞬間、弟は恐怖でその場に蹲った。
(兄者……よく兄者に当たらなかったものよ! 良かった……)
「あ、ありがとうございます……」
一方、地面に昏倒したまま狂乱丸は礼を言った。
「勿体無い限りです。私のような下臈に。姫? お怪我はございませんか?」
腕の中で姫の温もりが伝わって来た。その柔らかさも。
だが、何故だろう?
姫は動かない。
狂乱丸の煌びやかな装束の襟元をしっかりと握ったまま、その小さな指もピクリとも動かない──
「あ……あなたは──」
しかも、腕の中の姫の顔に狂乱丸は見覚えがあった。
「姫君っ!」
まず乳母が、続いて女房たちが騒然となる。
「きゃ──!」
「姫っ!」
「春苑姫──っ!」
「──……」
喧騒の中、狂乱丸には秦公春の怒声だけが聞き分けられた。
「控えろっ! 姫から手を放せ、狂乱丸!」
頼長寵愛の美しい随身は狂乱丸の胸から春苑姫を引き剥がすと邸の中へ抱え入れた。
藤原頼長の娘、春苑姫がそのまま息を引き取ったことを狂乱丸たちが知ったのは、一同、一条堀川の田楽屋敷へ戻った後だった。




