水の精 12
水面が夕陽に照り輝いている。
水鳥たちは一塊りになって羽を休め、それ以外の鳥たちは山の塒へ帰って行く時刻。
解き放たれるのは遊女たちである。
ナミはとある池の畔にやって来た。
大内裏の東北、鴨川に濯ぐ二つの川の交わる辺り。
いつもここから始める。
ここは故郷の海とは比べ物にならないくらいちっぽけな溜池ではあるが。それでも、水には違いない。 ナミは水の側にいるのが大好きなのだ。何処よりも心が安らぐ気がする。
だが、運悪くその日は先客がいた。平生、自分が好んで立つ辺り、柳の木の下に被衣姿の美しい影──
(これは、今日は場所を変えねば……)
即座にナミは思った。お互いの仕事の邪魔をしあう愚は犯すまい。争いは避けたが賢明じゃ。
ところが、さっさと往き過ぎようとした時、佇む被衣の袖が揺れて呼び止められた。
「おい、ナミ……!」
その声にギョッとして足を止める。
「婆沙丸か? まあ! おまえ様は私を驚かしてばかりじゃな?」
またしても異形。先夜は貴人で、今日は同業遊女ときた。田楽師とは聞きしに勝る変わった輩である。
「フフ、これはおまえが置いて行った小袖だよ。返しに来た。それから、あの夜の代金も。おまえは俺から何も取らずに去っただろう?」
命すら、な?
「代金はいらぬ」
ナミは頬を染めた。それともこれは夕陽の照り返しだろうか?
「それにしても、婆沙丸、どうしてここがわかった? 私がいる場所が、何故、おまえ様にわかったのじゃ?」
訝しがる娘に、田楽師の情報網を見くびるなよ、と婆沙丸は笑う。
「俺たちには俺たちの伝手があるのさ」
婆沙丸が娘の容貌を詳細に伝え、捜してくれるよう方々の仲間に頼んだところ、早速、『似た遊女が近くの池の畔に立つ』と池浚いを生業にする西京の清目から情報が入った。それを田楽屋敷まで直接言って来たのは、やはり西京に住む声聞師だった。
「いつもここに立つのか?」
「大概は。それから閑院、右獄に松尾社……」
「ナミらしいな! 皆、川に近い。神泉苑には放生池があるし。なるほど、どれも水の側だ」
そう言えば、初めて出会った戻り橋は言わずと知れた一条堀川の畔だ。それ故、最初はその周辺を必死で捜し回ったのを婆沙丸は懐かしく思い出した。
「だが、変だな? 俺があんなに捜したのに、どうしてあっちでは会えなかったんだろう? 最近、戻り橋界隈へは来ていないのか?」
「あそこはもうよい。二度と……行きたくはない……」
「?」
ナミが落ち着かなげにキョロキョロと周囲を気にし始めたのを見て婆沙丸は悲しくなった。
(可哀想に。いつも見張られていると思って安らぐことがないのだな?)
思えば、あの夜もそうだった。俺の手を引いて、あんなに懸命に走って──
「安心しろ、ナミ、今日は誰に見られたところでどうということはないさ。そのためにこんな格好で来たんだ。ほら!」
被衣の影で悪戯っぽく片目を瞑って見せる婆沙丸。
「遊女同士立ち話をしたぐらいで誰が気にかける? よくある光景じゃ!」
「そうは言っても──長くはダメじゃ。私はもう行く」
「待て」
婆沙丸は素早く娘の手を掴んだ。腕輪の赤い珠が鈴のように鳴った。
「今日、俺は大切な話を伝えに来たんだ。よく聞けよ、ナミ。俺はおまえを逃がしてやる」
「──……」
驚いて目を瞠った、その顔のなんと美しいことか……!
夕焼けの最後の光の中で婆沙丸はつくづくと嘆息した。
一生忘れまい。これが……これが俺が初めて愛した女なのだ……
ナミ……俺の本妻よ……! ※本妻・古語
とはいえ、当の娘の喜びの表情は直ぐに翳った。
「無理じゃ。いくら婆沙丸でも。いくら田楽師でも……」
「どうしてわかる?」
「だって、もう何度もやってみたから。その都度失敗した。館からは逃げ出せてもこの広い京師からは出られない。いつも結局、羅城門に行き着く前に館殿の従類に捕まる。それに──」
ナミの声が震えた。
「万が一、京師から逃げ出せたとしても……その先の道がわからない……」
故郷の海までは遠過ぎる。
項垂れる娘の耳元に田楽師はそっと顔を近づけると、
「馬鹿だな? 今まで失敗したのはおまえが一人だったからさ。今度は違うぞ。俺がいる」
「何と言った?」
「俺がおまえを、おまえの故郷まで連れてってやる! しかも、今回は何処から見たって大丈夫という……完璧な筋書きまであるのだぞ!」