カスカニカスカナリ 26
南都は藤原一族の氏神・興福寺のとある塔頭。
一同はそこに昨夜来、逗留している。
「……白山の麓、越前の地で私は白昉様と出会いました。勿論、その頃はそういう名ではありませんでしたが。私は、白昉様が九歳で地元の寺へお入りになるまで身近に暮らしたのです。
十一歳で叡山へお移りになった後も、年に一、二回とは言え連絡が途絶えることはありませんでした。
そしてこの春、〝唯授一人〟に選ばれた白昉様は『時が満ちた』と、私を都にお呼びになりました」
水葉はまた、恵噲の殺害も認めた。
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深更の叡山、文殊楼。
呼び出されてやって来た水葉の声は少し震えていた。
「こんな時刻に……こんな処で……それは一体何の真似じゃ?」
「何、怖がらなくともよい」
楼の欄干から身を乗り出して扇を撒いていた恵噲は、いったん手を止めて振り返った。
「これは〈五眼印〉と言って、摩多羅神のありがたい除障の所作じゃ。普通は正月に行うのだが──今回は世話になった童子への祝儀だからな」
足元の袋から扇を掴み出すと、また勢い良く撒き始める。撒きながら恵噲は言った。
「この間の私の求婚を憶えているか、水葉? 私の心は変わらない。これが済んだら、一緒に都を出よう。場所はどこでも良い。夫婦となって静かに暮らそう。おまえ一人くらいどんなことをしてでも私が食わしてやる」
背を向けているので顔は見えないが声は明るく澄んでいた。
「私も、一時は復讐に生きようと思ったが……おまえを知って考え直した。おまえは私の新しい希望の光だ。おまえと一緒なら私は生き直せる」
「恵噲様……」
最後の扇を恵噲は高く夜空へ放った。
「さあ、私の為すべきことはこれで終わった!」
「本当にな」
もうひとつ声がして、恵噲は闇を透かし見た。
「……白昉か?」
「私も、そろそろ終いにしても良いと思っていたところだ」
闇から化現したかのように、この世のものとは思えない美しい僧がゆっくりと近づいて来る。
「おお、おまえもそう思うか、白昉?」
嬉しそうに目を細めた恵噲に白昉は告げた。
「と言うことは──おまえの役割も終いということ」
「え?」
「〈玄旨灌頂〉の由緒ある什器を盗む──これだけの大罪を犯しておいて、この世で再び生き直そうなどと本気で思うとは、おまえも案外、暢気だな?」
「白昉?」
「第一、その女は私の〝護法〟だぞ。おまえの好き勝手にさせるわけにはいかないよ」
わけがわからずポカンと口を開けたままの恵噲。
「まだ悟らないのか? その女は私があてがってやったんだよ。おまえがあんまり落ち込んでいたから。
それに、今回の件で協力してくれたお礼も兼ねて、な?」
恵噲の声はほとんど聞き取れないくらい小さかった。
「……そうだったのか」
欄干に手を突いて、白昉は今しがた恵噲が撒き終えた扇を眺めた。
扇は暗い地上で、さざめいている白波のように見えた。
「やあ! 湖上にいるようだ……!」
白昉は感嘆の息を吐いた。
「で? 扇にはどんな謎解きの〈鍵〉を仕込んだんだ? 今度こそ、あの〝容貌第一〟の検非遺使にも解けそうか? ククク……」
それにしても、と白昉は嘲笑った。
「おまえは本当に人がいいな! 山に籠もって学問ばかりやって来たせいだな?」
「私のことはいい」
恵噲の声の調子が変わった。
頭を上げると昂然と言い放った。
「私は同罪だ。今度こそ目が覚めたよ。私は私の罪を償う。もう何処へも逃げたりはしない。
だが、その娘は自由にしてやれ。水葉はおまえの〝道具〟ではないぞ!」
白眆の肩が揺れて、先輩僧を振り返った。
「ほう?」
「おまえのやり方は酷過ぎる! 私はこの娘と純粋に知り合ったのだと信じていた。恋を知って、生きる意欲が湧き、それ故、この出会いが仏縁かも知れないと思った。御仏が罪を犯した私に投げてくださった救済の綱かと。
それを……おまえが影で命じていただと?
好きでもない男……私におまえが抱かせ続けただと?」
この男がこれほど激昂するのを白昉は初めて見た。絶望する姿は既に見ていたが。
「この娘の人生はこの娘のものだ! おまえたちがどういう関係か知らないが、だからと言っておまえが好きにしていいものではない! この娘を解放してやれ! この娘の生き方はこの娘自身に選ばせろ!」
「同じことだと思うがなあ? だが、まあ、一度訊いてみてもいいか」
面白そうに白昉は蛇使いの娘に目を向けた。
「恵噲はこう言っている。どうだ、水葉? おまえは自由になりたいかい? 私は構わないぞ。行きたいなら何処へでも行くがいい。それとも──私の傍に残るか?」
水葉は動かなかった。
「ほらな! 私の言った通りだろう?」
白昉の柔らかな笑い声が楼を満たして響く。
「この娘は私の傍にいたいのさ! それ以外の場所を知らないからな。幼い時、買い取られて来て、何処にも居場所などないのだ。そして、こういう生き方しか知らない」
「……おまえはひどい人間だな?」
絞り出すような恵噲の声だった。
「もっと早く気づくべきだった」
「〈八葉鏡〉を盗めと唆された時に?」
「いいや。一緒に鶯の声を聞いた時に」
「ああ! そんなこともあったな?」
一瞬、白昉の眼差しが揺れた。
遠いその日、谷の底に鶯の声を探した仕草そのままに、楼の上から闇を見下ろす。
「でも、おまえは誤解している。私はそれほどひどい人間じゃないよ。
そう、私は、それなりに優しいさ。おまえのことだって、恵噲、この世で生き直すことは叶わないまでも──せめてちゃんと極楽往生させてやろうと考えているのだから。
摩多羅神……荼枳尼天……奪精鬼に頼んで、な?」
「?」
白昉は切れ長の目を地上の暗闇から娘の方へ移した。
「そういうことだ。やれ……!」
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「私は、白昉様に命じられた通りに恵噲様を殺しました。さほど困難さは感じませんでした。むしろ、厄介だったのは、翌日、犬に追われたこと……」
瞬きもせずに蛇使いの娘は明かした。
「水も浴びぬまま、返り血の染みた衣服だけ取り替えて、東の市で見世物に立ったせいで──体に染みついた血の匂いが野犬を呼び寄せたのです」
その夜、宿坊で田楽屋敷の仲間だけになった際──言うまでもなく、藤原忠延はあの後、即座に有雪に解雇を言い渡し、以降、頼長一行と行動を共にしている──婆沙丸は改めて有雪に質した。「おまえは薄々、水葉の仕業と察していたな?」
「当たり前だ。何度言わせるのじゃ。この天下一の陰陽師・有雪様に見通せぬものなどないわ!」
言った後で、頭を掻いて付け足した。肩には白い烏が乗っている。
この鳥は、法華堂の前庭で石が降った後、いつの間にか陰陽師の肩に戻っていたのである。
「まあタネを明かせば──娘を疑い出したのは、おまえから犬に追われる話を聞いた後じゃ。実はその前に俺は恵噲が殺された楼の地面で燦らめくものを見つけていた。それから、恵噲の遺骸からも。
何だと思うよ? 蛇の鱗さ! そして、あの朝──」
「あ」
婆沙丸も思い当たって赤くなった。
「そうさ。娘の元から戻った朝帰りのおまえさんの体を探ったら、案の定、鱗がついていた」
したり顔で有雪は言うのだ。
「蛇の鱗に関わる候補がいるとしたら──これはもう〈蛇使いの娘〉以外にはいないじゃないか!」
「陰陽師と言うより、おまえは立派な策士だよ」
呆れたとも賞賛とも取れる表情で成澄が言った。
「あの、犬の〈結界〉もおまえの策略だものな!」
鏡を奪還する南都への旅では、蛇使い絡みの一悶着が必ずあると予測して、予め有雪は懇意の仏師・天衣丸に〝犬〟の像を数匹、彫ってもらった。
京師を立つ朝、得意の早彫りの技で彫り上げた作品を天衣丸は自ら届けてくれたのだ。
道中、有雪が背負っていた大きな包みの中身はそれだった。
「いや、俺は、やはり優れた陰陽師さ。俺の本領はそこにこそある!」
有雪は白衣の袖を翻して一同を見回した。
「おまえたちもその目で見たろう? 藤原忠延殿は石を呼ぶ不思議の体質の持ち主なのじゃ!
稀にそういう風に生まれつく人間がいる。その種の人間は、強い不安や恐怖を感じた時、身近に激しく石を引き寄せるのだ」
実際、最初の投石騒ぎの際、牛車の中で忠延は同乗していた従兄弟から、牛車に乗ったまま百鬼夜行に遭遇した貴人の怪奇譚を聞かされていた。
従兄弟の迫真の語り口に肌が粟立った時、石が飛び交い始めた。
以降、牛車に乗って、漠とした不安が胸に蘇るたび、石が降って来た……
現代で言うところの〈ポルダーガイスト現象〉である。
「俺はその不思議を見抜いたのだ! そうして、逆に上手く利用したというわけさ!」
有雪は忠延に、自分が傍で封じていないと再び投石に合うと脅して、目立たぬよう家司の服と取替えさせ、覆面をつけて旅に同道させた。
何かの折り、この力が役に立つかも知れない。何事も無ければ無いで、見事、魔を封じたと称して更なる大金をせしめるつもりだった。
「やはり今回も、全て、俺あっての解決であったな!」




