カスカニカスカナリ 25
その容貌を目にした途端、検非遺使が喘いだ。
「むむ……前に叡山で大殿を襲ったのも……?」
「そう、この娘よ」
満足げに白昉は頷いた。
「尤も、あの時はこやつの勝手な暴走だ。蛇を集めに行って偶々間近に見た前関白の姿に功を焦りおった。それについてはたっぷりと叱っておいたぞ」
出現した娘の方へ視線を向けて、
「全く、この娘は私の頼もしき護法よ。剣を見事に使いこなせる。傀儡の集団に幼くして買い取られ仕込まれたからな。さあ、水葉! いいぞ、時はまさに、今だ! ここにいる者たちをおまえの刃で斬り殺せ!」
腕に抱え込んだ頼長に向かっては、こう言った。
「まず、この世にいる内から、血の池地獄を見るのも一興なり! のう、左府殿?」
しかし──
当の娘は一歩も動こうとしない。
「どうした、水葉? 私が命じているのだぞ!」
「──……」
「やれ!」
「ダメじゃ……犬が……」
「え?」
娘は剣を下げたまま石化した如く立ち尽くしている。
微かに頭を振って繰り返した。
「犬が……いる……」
「ば、馬鹿を言うな!」
白昉は叱咤した。
「ここは境内だぞ! この辺り、鹿はいても犬などいるものかっ!」
だが、娘の凍る視線を追って首を捻った白昉もそれを見た。
確かに、法華堂の前庭の茂みに、宛ら自分たちを取り囲むようにして犬がいた。
一匹、二匹、三匹、四匹……合わせて四匹、潜んでいる。
犬たちは爛々と眼を光らせてこちらを窺っていた。
「クッ、いたからと言って何だ! 所詮、犬だ! さあ、やれ、水葉! こやつらを斬り殺せ!」
娘は動かない。
「ええい、いざという段には役に立たぬ奴! よいわ、こうなったら、やはり左府からだ!」
白昉の短剣が漣のように揺れた。
「ウッ?」
「頼長! おまえの喉首、掻っ切ってくれよう!」
この時、橋下の陰陽師が動いた。
ずっと自分にしがみついて震えていた弟子の覆面を毟り取って、白昉の方へ突き飛ばす。
「待った、白昉! 掻っ切るなら、こいつを先にやれ! 若いから血がたっぷり迸って、殺しがいがあるぞ!」
「何?」
「おまけに、こやつ、おまえの大嫌いな藤原一門……れっきとした藤原摂関家の血脈なり!」
「ウアッ! ひどいよ! 有雪殿? こ、この仕打ちは何故? いついかなる時も私を護ってくれると言ったじゃないか……」
突如足元に転がった若者を見て、刃の下で頼長も叫んだ。
「やや、おまえは忠延? 何でおまえがこんな処に?」
「お、お、叔父上……助けて! わ、わ、わ、私は関係ない……」
白昉の双眸が燦いた。剣の鋒を翻す。
「ほう、おまえが? おまえも藤原か? よかろう、藤原なら何人でも叩き斬ってやるっ!」
「ヒエエエエエ──……!」
刹那。
コツ……
コツ……
コツ……
最初はパラパラと、次にはドッと石が降って来た。
法華堂前庭の、敷き詰められた玉砂利が風に舞い上がり次から次へと振って来る。
「な、何だ?」
「旋風?」
「ウアッ?」
「たっ?」
頭を抱えて身を縮めたのは忠延だけではない。
美丈夫揃いの頼長の随身たちも、堪らずその場に身を伏せた。
狂乱丸は怪我をしている弟を庇ってその上に覆い被さった。
有雪は──この男は真っ先に蹲っている。
唯一人、成澄だけが違った。
雨霰と降る石をものともせずに、カッと目を見開いてその場に屹立している。
京師にあっては万人が恐懼する検非遺使装束。蛮絵の黒衣、純白の袴に、容赦なく石は降った。
同じく、叡山学僧の僧衣にも間断なく石は降る。
遂に、白昉が、僅かに顔を逸らせた。
その一瞬、成澄は駆け寄ると、左手で頼長を奪い取り、右手の刀を一閃した。
「──……」
怒涛渦巻く嵐の海が突然、凪いだ。
そのままに、世界が沈黙した。
何処か、遥か遠くで、小石の最後の一個が地面に落ちて転がる音がする。
コツ……
「?」
ゆっくりと目を開けた狂乱丸が見た光景──
散乱する玉砂利の中、一人立ち尽くす検非遺使尉。
その足下に横臥している僧・白昉は首から胸にかけてバッサリ斬り下ろされていた。
それでも、こんな美しい屍は見たことがない、と田楽師は思った。
どのくらい時が経ったのか。
蛇使いの娘の悲鳴が前庭に響き渡った。
「キャ──……!」
金縛りが解けたごとく娘は剣を下げたまま成澄目掛けて走り出した。
気づいた成澄が身構えるより早く、随身の一人が進み出た。
腰の太刀を抜き払う。
ずっと覆い被さっていた狂乱丸の下から婆沙丸が飛び出す。
自身の腕から滴る血を風に散らし、一足飛びに飛んで、娘の体を掴んだ。
振り下ろされる刃──
婆沙丸が愛しい娘の体を力一杯引き寄せたのと、鈍い音がして随身の剣が宙に跳ね上がったのは同時だった。
成澄が己の剣で随身の剣を下から払ったのだ。
「斬るなよ!」
刃を逃れた娘と婆沙丸、反動で二人は一緒に地面に転がった。
「婆沙……?」
狂乱丸は婆沙丸の無事を確認すると小さく頭を振った。
双子だったから、弟が今、何を考えているか、兄には手に取るようによくわかった。
(兄者、見たかよ? 俺の勝ちじゃ! 俺は水葉を……愛した娘を守り抜いたぞ……!)
一方、成澄。
地面に落ちた剣を拾うと、持ち主に返しながら謝った。
「すまなかったな、公春。だが、斬るには及ばない。あの娘は操られていただけだ。
この仏の庭で、これ以上虚しい殺生はなしだ。血塗られるのは俺一人でよい」
「いいですよ、成澄殿がそうおっしゃるのなら」
随身は素直に剣を鞘に収めた。
この秦公春は、主君頼長の下で、もう何人も人を殺めて来た。
既にどっぷりと血塗られているのだが。
その所業に似せず白い歯を零して、爽やかに笑って言った。
「その代わり──京師に帰ったら一緒に飲みましょう! 今度こそ、約束ですよ、成澄殿?」
その後、自らの体が血に染まるのも厭わず、水葉は白昉のちぎれた遺骸に取り縋って泣いた。
引き離すのは容易ではなかった。
従一位・左大臣藤原頼長の前で今回の騒動の全容をこの娘が語ったのは、翌日に至ってのことだ。




