カスカニカスカナリ 24
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〈玄旨灌頂〉の授者の名が正式に発表されたその夜。
恵噲の僧坊には日が落ちても燭に火が灯されることはなかった。
暗闇の中に二つの影がある。
「〝唯授一人〟か。私はこんなもの欲しくなかった。それなのに、連中は私にくれるという」
白昉は言い直した。
笑いを押し殺したせいでくぐもった声が洞窟のような暗い室内に響いた。
「連中は私を選んだのだ。私でなければダメなんだと。おまえではダメだと。人生とは皮肉なものだな。なあ、恵噲?」
名を呼ばれても恵噲は唇を噛んだまま動かなかった。もともと色白の顔が闇に青く滲んで震えている。
白昉は続けた。
「こんなに……心から……それを授かることを欲しているおまえを蹴って……連中は私を選んだのだ!」
経机の前に塑像のように座している先輩僧の肩に白昉は手を置いた。
唇を耳に寄せると、
「私の欲しいものは他にある。それ以外、私は何もいらないのだ。それを手に入れるためなら私は何でもする……」
「え?」
「命と引き換えにしてもいいと思っているものが、私には他にあるのだ」
漸く、恵噲が口を開いた。
「し、信じられない! 〝唯授一人〟に選ばれ〈玄旨灌頂〉で印信を授かる。このこと以上に価値のあるものがこの世にあるとは私には思えないが──」
更に唇を寄せて、白昉は己の欲するものの名を囁いた。
「……」
「本気か?」
「どうだ、私たちは同志にならないか? ともに復讐の同志にさ?
おまえはおまえをアッサリと否定した叡山の連中に……私は私の血を否定した一族を……」
恵噲の吸った息が闇を裂いて笛のように鳴る。
「……おまえは……狂っている」
長い睫毛を瞬いて、白昉は微笑んだ。
「じゃあ、おまえも狂えよ?」
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「これで全てわかったろう? 今回の騒動の終着点は〈玄旨灌頂〉の什器である鏡を見つけ出すことにあらず! 鏡は餌じゃ。憎き藤原一族の長を誘き出すためのな。おまえ等、まんまと釣られおった!」
白昉の窈窕たる微笑。
「待て! 今ひとつ、俺に教えろ!」
叫んだのは成澄だった。
法華堂の玉砂利を鳴らして、一歩踏み出して、検非遺使は問う。
「白昉、おまえは何故、おまえの言う〝終着点〟にここを──この地を選んだ?」
「何を今更?」
白昉は胡乱な目で蛮衣を纏う検非遺使を見返した。
「時間稼ぎのつもりか、判官殿? だが、無駄だ。頼長の処刑は止められぬ。藤原一族の長は、今日、ここで断罪されるのだ! 私の手で!」
「だから、何故ここか、おまえがこの地を選んだ理由を俺は知りたいのだ!
最終的に鏡を隠す場所をここにしたのは何故だ? 教えてくれ!」
食い下がる検非遺使の瞳に真摯な光が宿っている。
「そこまで言うのなら──答えは簡単。謎として仕込みやすかったから。鹿皮を纏った観音などそうはおらぬからな。その上、我等が血脈……どちらにとっても因縁深い祖・光明皇后の造仏なれば、復讐を遂げる場所として最適ではないか!」
「違うな。俺に言わせれば──おまえは招かれたのだ! この像の前におまえが呼ばれたのだ!」
「何だと?」
成澄は、宛ら観音像が透かし見えるかのように堂宇の方を振り返った。
「あの像を見て、紛いなりにも僧衣を纏った身のおまえが気づかぬのか? 造仏の動機は幼子を亡くしたその悲しみとも聞くぞ。子供の命とは、それほどに大切なもの」
成澄は必死だった。
「別の見方をすれば──この国を統べる帝や皇后ですら我が子一人の命を救うことは容易ではないのだ。
命を守れなかった、その無念さ、悲嘆が、あの像の面に溢れている……」
向き直って、成澄は白昉を真っ直ぐに見つめた。
「失った命の尊さを思え! そして、今一度、考えてみろ! おまえの命は助けられたのだ!」
「成澄……」
怪我を負った弟を支えながら狂乱丸は小さく息を吐いた。
検非遺使が何を言いたいか、痛いほどわかった。
遠い日、山の中で田楽師に幼い我が子を売り渡した父の、金を受け取った枯れ木のように痩せた指がいつまでも震えていたこと……
『綺麗なべべを着て、美味しいものを腹いっぱい食えるよ』と心から喜んで抱きしめてくれた母の、涙が伝っていた細い鎖骨……
俺達は〝捨てられた〟などとは思っていない、〝生かされた〟と思っている、今日に至るまで!
「おまえは実際には殺されなかった、白昉! そら、先刻、おまえ自身の口で言った通り、おまえは今ここに存在する。その意味を──助けられた命の意味を考えろ!」
思わず力が篭って、沓の下で玉砂利が軋んだ。
「本当に傀儡の長は復讐させるためにおまえの命を助けたのか? 傀儡たちはそんなことのために代々おまえを生き永らえさせたのか? 俺にはそうは思えないぞ!」
検非遺使の双眸は怒りと言うより悲しみを強く映していた。
「おまえは考え違いをしている! 今からでも遅くない、刃を収めろ! これ以上……修羅の道へ踏み込むな!」
最後の言葉は懇願に近かった。今一度、法華堂を振り返って、
「傀儡たちが護って来た命を無駄にするな! そのことを悟らせるべくあの像はおまえをここへ呼んだのではないのか?」
白昉は無言だった。
無言のまま、成澄と同じ方向──法華堂を凝視している。
剣を突きつけられている頼長も、随身たちも、田楽屋敷の面々も、無言だった。
そこにいる全員が静寂の中に佇立している、その永遠と思われる時間が過ぎた。
実際は一瞬だったのかもわからない。
「……検非遺使にしては中々見事な方便だったな?」
白昉は笑顔を燦めかせた。その目はもう法華堂を見てはいなかった。
「だが、今更そんな戯言で私の心は変えられぬわ! 改めて言ってやる。追放された、否、抹殺された赤子から私に繋がる命は、まさに、今日の復讐のためにあったのだ! これが答えだっ!」
いったん言葉を切る。遠い目をして、再び口を開いた。
「私は、叡山に上ったその日の内に既に今日の復讐を胸に決していた。
厳しい修行の後、倒れ込んだ夜具の中で復讐の方法をあれこれ考えること。それだけが唯一の遊戯だった。〈玄旨灌頂〉の什器を盗むことを思いついてからは〝唯授一人〟に選ばれるために一層修行に身を入れたものさ。
その長い日々の終着点がここなのだ!
どうだ、今回、私が仕込んだ謎は中々面白かったろう? 長い時間をかけて準備して来たからな。
おまえたちも翻弄されて、大いに楽しんでくれたはず」
ここで白昉は双子に視線を向けた。心なしか優しい声に聞こえる。
「本当は恵噲を巻き込むつもりはなかった。だが、あいつのあまりの絶望ぶりを見て──同情して、あくまでも親切心から仲間に加えてやったまでだ。さぞかし、あいつだって鬱憤が晴れて、胸がすくはずと。
それなのに、あいつは根が優し過ぎた。軟な人間だから……結局、鬼にはなれなかったな?」
再び検非遺使に視線を戻して言い切った。
「だが、私は違うぞ! そう、『修羅の道を行くな』と言ったな、判官?
私は、最後まで、その修羅、貫徹させてもらう!」
成澄の肩が微かに傾いだ。
(届かぬか……)
救いの縄が届かない人間もいるのだ。
どんなに遠く投げても、救済の縄から摺り抜ける人間が……
不空羂索観音よ……
「さあ、もうよいな? 気がすんだろう、判官。
では、おまえたち、忠実な随員どもから先に彼岸へ送ることにしよう。──水葉!」
呼ばれて姿を現した娘は、長い剣を下げ、首から足元まで黒い衣に身を包んでいた。




