カスカニカスカナリ 23
この状況を正しく理解するまで、居合わせた一同、更に数秒の時を必要とした。
「……白昉?」
「貴様……白昉っ!」
「頼長様に、な、何という不埒な真似を……!」
随身たちが口々に叫ぶ。
が、事実、時、既に遅かった。
藤原頼長は白昉の手中にあった。真後ろから抱き抱えるようにして首に短剣が突きつけられている。
「婆沙、大丈夫か?」
血を滴らせる弟を狂乱丸は助け起こした。
「ああ。クソッ……」
「これは何の真似だ、白昉?」
成澄が質す。低いがよく通る声だった。
「ご覧の通り、頼長殿の命をいただきに参った!」
白昉の声も素晴らしい。朝夕の読経で鍛えた典雅な音調。
「〝唯授一人〟に選ばれながら、かよ?」
「〝唯授一人〟も〈玄旨灌頂〉もハナから私の欲するものではない!
私が欲するのは、左府……藤原摂関家の頂点にある者……そやつの命のみ!
藤原一族こそは我が宿痾の仇なれば……」
白昉は取り巻く一同を涼やかな双眸で眺め回した。
叡山にあって、僧たちの間で『目に殺すところあり』と讃えられた麗しの眼差しである。
「おまえたち、随員に恨みはないが、同道したのが不運と諦めてもらおう。
この場にいる全員、頼長と道連れじゃ! フフ……まさに南都へは死出の旅となったな?」
ところで、刃を突きつけられている頼長自身、皆目わけがわからない様子だった。
「待て、白昉。恨みと言い、宿敵と言うが──一体、私がおまえに何をしたと言うのだ? 私は全く思い当たらないのだが?」
阿闍梨たちの言を受け、叡山では新参に当たるこの若い僧を後見して来た摂関家である。凡そ、恩こそあれ、憎まれる筋合いはなかった。
白昉は堪えきれないと言う風に肩を揺すって笑った。
「恨みを買った憶えはない、か。それは正しい。厳密に言えば、おまえの内なる血が私の内なる血に為した罪なれば……」
白昉は言う。
「私はおまえたち、藤原一族に抹殺された赤ん坊である!
私の内に代を重ね……凝り固まった……赤子の姿が見えぬか?」
「──?」
「赤子の母は貴様らが一族出身の女帝・称徳天皇。父なるは道鏡である!」
「ゲッ!」
一同、その場に凍りついた。
「まさか……」
皇極天皇、重祚して称徳天皇は、ここ法華堂の本尊・不空羂索観音像を造仏したと伝わる光明皇后の一人娘である。
この女帝と僧・道鏡の恋物語は聖俗取り混ぜて後世の人口に膾炙している。
とはいえ、子を為したという話は一切ない。
震えながら頼長は叫んだ。
「僻事じゃ!」
「ほう、そうか? 私は生まれ落ちた時からこのことを聞いて育ったぞ……」
+
時は天平宝字五年(761)。
近江は瀬田川畔の保良宮にて、女帝と道鏡は巡り会った。
元々は精神を病んだ女帝の療養に端を発した行宮であったが、いかにも長すぎる療養期間の後半は懐妊から出産に至る日々……と言うのが歴史の真相である。
心の病快癒の祈祷に呼ばれた僧・道鏡の類稀なる美貌に女帝は恋に墜ちた。
そして、女帝は子を生んだ。
元来、女帝はその在位中、結婚は認められていない。
まして、子を産むなど、金輪際許されぬ身である。
従って、出産はごく親しい者たちの間──つまりは、実家の藤原一族の協力の元、秘密裡に執り扱われた。
生まれた子は藤原側で〈奇貨〉として大切に養育する旨も決まっていた。
だが、不幸にも、女帝の赤子は死産であった。
否、女帝には死産と告げられたのだ。
この姦計の主こそ、女帝の前恋人であり同族の近臣・藤原仲麻呂だった。
かつて女帝より、その笑顔が周りの人々を圧倒するほど魅力的だとして恵美押勝の名を賜ったこの男。姿形だけでなく頭脳も明晰だった。
太師という太政大臣に匹敵する地位にあって政治を動かしていた仲麻呂は、この種の出自を持つ赤子を生かしておけば必ずや後顧の憂いとなる、と考えたのだ。それ故、乳母を篭絡して、予め用意していた嬰児の死体と擦り替えさせ、死産と偽って抹殺した。
実際は、仲麻呂は自らの手を汚すことを嫌い、その始末を懇意の傀儡の長に委ねた。
白山を本拠とするこの傀儡集団は、しかし、渡された赤子を殺しはしなかった。
のみならず、その血脈を絶やすことなく代々大切に育んだ──
+
「おまえはそれを──その血を証明することができるのか?」
白昉の語る顛末を聞き終えて、頼長が発した最初の言葉はこれだった。
「何か……明白な〈印〉……〈証拠の品〉を有しているのか?」
白昉は首を振る。
「今となっては何もない」
仲麻呂から傀儡の長に委ねられた当初は、確かに〈血の証〉を有していた。
死産と聞いてそれを信じた女帝が、我が子の死出の旅にと持たせた特別の贈り物。
〈蘭奢待〉と〈瓔珞〉──双方とも正倉院より取り出した秘宝である。
「だが、そんなものとうに散逸して手元には残っておらぬわ」
瞳を伏せて白昉は認めた。それから、顔を上げ決然と言い切った。
「だが、私はここに存在する。
それで十分ではないか? 私の父も、またその父なる人も、その父も……皆、傀儡に守られて血を繋いで来た。そして、私の代になって光明が射した。
九つの歳に私の容貌に目を止めた人の伝手で越前の寺に引き取られ、更に行く末を期待されて、十一歳で叡山に連れて来られた。
襁褓に包まれて都を追われた日より、こんなにも藤原一族へ近づいたことは我が血脈中なかった。千載一遇とはまさにこれ。この機会を逃す手はない!」
「憐れな……」
刃が突きつけられているのも忘れて首を振る左大臣。
「おまえは傀儡どもに弄ばれただけじゃ。そんな世迷言を真に受けるとは……」
摂関家次男の目には今や蔑みの色が濃く浮いていた。
「恵噲と言い、おまえと言い、これが秀才と讃えられる叡山の英知か? その脳髄の何と希薄なことよ! 愚か者どもが!」
恵噲の名を口にした後で、頼長は自ら思い当たったらしく眉を寄せた。
「よもや、今回のこと──恵噲に鏡を盗めと唆したのも、おまえか?」
「然り!」
「あ」
声を上げたのは双子の田楽師たちだった。
神泉苑で〈三尊舞楽ノ歌〉を披露した夕景、恵噲が言った言葉を狂乱・婆沙の兄弟は思い出した。
── 一番近くにいる者こそ〈魔〉である……!
「そうか、あれはおまえのことだったのか、白昉?」
微塵もたじろぐことなく白昉は肯った。
「おうよ。ある意味、私も恵噲も、ともに復讐の鬼と化したのだ……!」




