カスカニカスカナリ 18
鏡を盗んで隠した、その当人が死んでしまったとあって、今や益々、鏡の在処を突き止めるためには謎を解読する以外、術はなくなった。
恵噲を殺害した者が誰かを追求するより、日本国の至宝、〈八葉鏡〉の発見こそ最重要命題である。
この時代、『獄前の死人、訴えなくんば検断なし』と言われた。
例え検非違使庁の入口に死体が転がっていても訴える者がいなければ捜査は行われない、そのことを揶揄した言葉なのだが──これが中世の実情であった。
〈鹿〉及び〈六〉の字を頭に持つ寺社から、鏡が見つかったという報告は未だにない。
この読みもどうやら外れだったようだ。
この日、半日を叡山で過ごした後、引き上げる際、有雪は提案した。
「この五眼印の扇は持って帰ろう。じっくり読み解く必要がある。それから──」
恵噲の僧坊の曼荼羅図も手元に置きたい、と陰陽師は要望した。
傍に置いて、もっと別の謎が隠されていないか徹底的に調べたい、と言う。
成澄はこれを承諾した。
「但し、保管場所は田楽屋敷だ。そこ以外の持ち出しは禁止する」
有雪のことだ、上手いこと言って高値をつけて売り飛ばしかねない。差し詰め、投石に悩む貴公子なんぞに『効験アラタカ』などと吹聴して……
「おまえならやりかねないからな?」
有雪は肩を竦めた。
「見抜かれたか」
こうして、恵噲の二対の曼荼羅は、叡山から、一条堀川の田楽屋敷の座敷に移された。
狂乱丸たち、田楽屋敷の面々を先に帰して、検非遺使である成澄は京師へ戻る前にもう一度、凶行の行われた文殊楼前を点検した。
その後、ふと思いついて常行堂へ足を伸ばした。
別に深い考えがあったわけではない。以前、双子に聞いた摩多羅神の神前へ今一度詣ってみようと思い立ったのだ。そこに座して考えれば何か新しい閃きがあるかも知れない。
常行堂へ行って驚いた。先客がいたからだ。
「や、源空殿?」
「これは……中原様!」
成澄は微苦笑した。
「意外な場所で会うな? 貴僧も摩多羅神に祈りに来たのか?」
「摩多羅神? いいえ、私は未熟者にて未だその神については不明です。私が祈るのは──」
若い僧は勢至菩薩の前に座していた。
「迷うことがあるといつもここへ来ます。私の幼名は勢至丸と言うんです」
「ほう?」
「両親が勢至菩薩のように広い知恵のある子に育って欲しいと名付けてくれたのですが──広い知恵どころか迷いばっかりだ」
「意外だな。俺には貴僧は前途洋洋に見えるがな。一体何を迷うことがある?」
傍らに、静かに腰を下ろす検非遺使を源空はじっと見つめた。
堰を切ったように若い僧の口から言葉が迸る。
「私の父は、今日の恵噲様のように斬られて死んだと言ったでしょう?
父は美作国稲岡荘の押領使で──中原様がお気づきになられたように、私は嫡子として武士になるべく育てられました。ところが、北面の武士の息子と争って斬り刻まれた父が、今際の際に私に『僧になれ』と言ったんです。 ※押領使=反乱鎮圧・治安維持に遣わされた地方官
驚きましたよ。『仇を討て』と言うものと思っていましたから。
勿論、それが父の遺言である以上、逆らえず、私はこうして僧になりました」
いったん口を閉ざす。ホウッと吐息が漏れた。
「ですが、今でも、果たしてこれで良かったのかどうか悩む日があります。特にあなたのような凛々しい武人を見ると」
心が激しく揺れる、と源空は言いたかった。
自分もそうなるべきではなかったか?
「私は何をしているんだろう、こんな処で?
本当は強い武士になって、父の仇を討ち、母を護り──母だけじゃない、一族郎党をしっかりとこの手で護るべきなんだ。違いますか?」
「刀にしろ、弓矢にしろ──」
精悍な左衛門府武官の答えは意外だった。
「武力で人を護るのには限りがある。俺はそれしかできないからそうしているが、虚しいものさ。だが、仏の道は違うだろ?」
「!」
「さてと」
成澄は立ち上がると扉の方へ歩き出した。
「え? もう行かれるのですか? 祈りにいらっしゃったのでは──」
慌てて呼び止めた源空に明るい笑い声が返って来た。
「教えは授かった! ここへ来て良かったよ」
この僧に会ったということで──
(俺には今更〝祈り〟など似合わない。)
自分は祈る側にはいないということがハッキリと成澄にはわかった。
祈る場所には既に僧がいた。
僧は僧の道を行けよ。
俺は刀で──実際の行動で難局を斬り開け、ということだな、摩多羅神?
(今更、殊勝に神仏に祈ったり縋ったりするべきではない。)
常行堂を出て行く成澄の双眸は清々しく燃えていた。
片や──
腹を裂かれた屍、などという恐ろしいものを目の当たりにしたせいかも知れない。
その日の午後、気がつくと婆沙丸の足は東の市へ向いていた。
未練とは知りつつも、清らかなもの、美しいものが見たかった。
外へ出るのは久しぶりだ。
恋した娘にあっさりと袖にされて以来、気落ちして寝込んでいたから。
その水葉が蛇を操っている場所はすぐわかった。一番人集りがしている。
それを良いことに人垣からそっと愛しい娘の姿を眺める。
「?」
即座に婆沙丸は水葉の異変を感じ取った。
技に精彩がない。何かをひどく気にしているようで、目が宙を泳いでいた。
実際、蛇を落とすこと、四度。
(どうした、水葉? おまえらしくもない。一体、何を気にしている?)
娘の視線の先を追って、婆沙丸は気づいた。
(犬か?)
野犬が五、六匹、宛ら蛇使いの芸を見物するかのように人垣の周囲を行ったり来たりしていた。
明らかに水葉はそれを嫌っているのだ。
「おーい、どうした?」
「下手くそ!」
「またしくじったぞ?」
またしても蛇を取り落とした。
目の肥えた都人である。呆れ果てて櫛の歯が抜けるように次々と見物の輪から離れる。
その隙間を摺り抜けてとうとう犬たちが数匹、飛び込んで来た。
瞬間、水葉の顔が引き攣るのが婆沙丸にも見て取れた。
犬たちは一斉に水葉の取り落とした蛇に食いついた。
「キヤ────ッ!」
叫び声を上げたのは見物人の方である。
当の水葉は声すら出せず、金縛りにあったように棒立ちのまま、自分の蛇が引き裂かれるのを見つめている。
「水葉!」
婆沙丸が跳び入った。
犬を蹴って散らし、それから、娘の肩を抱いて揺すった。
「おい、どうした? しっかりしろ!」
移動の際、蛇を入れて置く竹籠を持ち上げて婆沙丸は犬たちに投げつけた。
「ギャン!」
「ギャッ……」
「キャン!」
流石に逃げ散って行く。犠牲になった蛇は粗方食いちぎられていたが。
「犬が苦手か?」
「……見たろう? あやつ等は私の蛇を喰らうもの」
確かに、蛇に犬は天敵かも知れない。だが、水葉の怖がり方は度を越しているように婆沙丸には思えた。
(まるで自分が蛇であるかのように犬を怖がっている……)
余り長く蛇とともに暮らしているので、いつしか蛇と一心同体になって、己と蛇の境目を見失ったか?
「今日はもう見世物はやめじゃ。帰る」
消え入りそうな声で娘は言った。婆沙丸の腕を強く握って、
「お願いじゃ。一緒について来てくれぬか? 私を送ってくれ……」
一度はフラレたとはいえ、恋した娘に頼られて婆沙丸は心から嬉しかった。
婆沙丸の方は犬など何でもない。大体、犬が怖くては都育ちとは言えない。
京師は至る処──大内裏の内でさえ──野犬が跋扈しているのだから。定期的な〈犬狩り〉も成澄たち検非遺使の主要な任務の一つだった。
二人で連れ立って帰る道すがら、何匹もの野犬が遠巻きに後を付いて来た。
脅える娘の肩を抱いて擁護しながら、天にも昇る心持ちの反面、婆沙丸は怪しまずにはいられなかった。
(それにしても……どうしたんだ? これまではこんなことはなかったのに?)




