カスカニカスカナリ 17 ★
文殊楼の二階から恵噲が撒いた扇は全部で108本あった。
成澄と狂乱丸は源空の手を借りて、回収した扇を一つ一つ楼上の床に並べて丹念に調べた。
108本の内、正しく〝五眼〟に開かれていたものは、僅かに六本。
五眼開き以外の扇は開き方も様々で、そこに記された文言はいずれも忌まわしい呪詛の言葉だった。
一方、五眼開きの六本の扇には同種の文様が記されてあった。
「……これは」
「〈花喰い鳥〉?」
見た通り、小鳥が花や小枝を咥えた様子からこの名がある。
この文様自体は古くからある、それ故、見慣れた、ありふれた文様だ。
実際、狂乱丸や婆沙丸もこの文様の装束を持っている。
奈良時代、大陸から伝わったとか。古代中国やエジプト、メソポタミアに生じたとも聞く。小枝や種子を加えて飛んで来る鳥は豊かな実りを予感させる吉兆として尊ばれたのである。
「〈鹿〉の次は〈鳥〉かよ! ……で? だから? 何なのだ?」
成澄は烏帽子に手をやって呻いた。
「これのどこが謎を解く〈鍵〉なのだ? 益々、さっぱりわからぬわ!」
「恵噲の奴、死して更に謎を増やす……か」
「!」
振り向くと、婆沙丸を従えた有雪が立っていた。
連続投石の的・災難の貴公子・藤原忠延の専属陰陽師になって以降、そちらの邸に侍っていた有雪。
が、何処で嗅ぎつけたものやら早くもこの陰惨な現場に出現した。
本人曰く、まずは田楽屋敷に寄って、臥せっていた婆沙丸まで叩き起して連れて来たやったから感謝しろ、だそう。
「おまえらだけでは無理じゃ。今回の鏡に纏わる謎は俺なしには永遠に解けぬさ!」
成澄と狂乱丸が細心の注意を込めて収集した五眼開きの六本の扇、その一つをひょいと取って眺める。
「どうだ、有雪。何か読み取れるか?」
「いや、まあ……これだけでは、な」
〈橋下の陰陽師〉は扇から顔を上げると、現場が見てみたい、と言った。
恵噲と108本の扇が撒かれていた文殊楼の前庭はとうに放免たちの手で掃き清められていた。
とはいえ、流石に血の染みは如何ともし難く、ドス黒く滲んでいる。
太陽は既に中天近かった。今日も晴天である。
晩春の陽光は惜しみなく、穢の出たことを告げる高札に降り注いでいた。
有雪が、血の染みた場所に蹲ったのを成澄は見逃さなかった。
「どうした、有雪? 何か不審なものでも見つけたのか?」
有雪は地面を人差し指でなぞっている。ややあって立ち上がった。
「ふーん……面白いな? じゃ、ここはもういいから次は──屍骸が見たいな」
恵噲の遺骸は阿闍梨の決定で文殊楼からほど近い小さな堂に運ばれていた。
源空に案内されて一同、そこへ向かう。
堂の前で、思い出したように成澄は源空を振り返った。
「ご苦労だったな、源空殿。今日は早朝からの騒ぎでさぞ疲れたろう? この後は、もう我々だけでいいから、貴僧は僧坊へ戻られよ。そして、ゆっくり体を休めるといい」
一瞬、源空は何か言いたそうな顔をした。が、素直に頭を下げた。
「それでは、私はこれにて失礼します」
堂は入口から入ると、すぐに礼堂という狭い造りだった。
一同が入って行くと布で覆われた遺骸の前で、香を焚き、経を誦している者がいた。
「……白昉殿か?」
恵噲と最後まで〈玄旨灌頂〉の〝唯授一人〟を争った、あの白昉だった。
自分が選ばれたことで恵噲が狂い、思わぬ凶行に走った。
当然、原因の一端が自分にもあるように周囲から見倣されて、それなりに辛い立場であるだろうに、この僧はそんな個人の懊悩など微塵も感じさせない。
今も薄暗い堂内で睡蓮の花のように蕭条と佇んでいた。
青く澄んだ念珠を鳴らすと、白昉は一同に向き直った。
「これは……検非遺使様。恵噲にせめて経の一つでもと思いましたので──では、私はこれで」
深く頭を下げて、去った。
「相手がアレでは恵噲も敵わなかったろうな?」
初めて白昉を見た有雪、顎を撫でながら染み染みと言った。
「誰だって敵わんさ!」
成澄も思わず頷いた。どうやら考えることは皆同じらしい。
「あの容貌と、かつての競争相手のために祈りに来る清らかな心根。白昉は〝唯授一人〟に選ばれるべくして選ばれたのだ。アレに勝る僧侶などこの叡山はおろか……三千世界にはおるまいよ!」
「全くだ!」
珍しく有雪も同意した。
「俺に言わせりゃ、〈印信〉どころか、女帝だったらコロリとマイって〈帝位〉すら授けかねんぞ、あれは」
とはいえ、いつまでも冗談口を叩いている場合ではない。
成澄は静かに白布を持ち上げた。
「ヒエッ!」
喘ぎ声を漏らしたのは婆沙丸である。
朝、既に見知っている狂乱丸は弟の肩にそっと手を置いた。
有雪はと言うと、深く身を折って、屍の、裂かれた腹部を熱心に眺め回している。
先刻、血の染みた地面でやったと同じように人差し指で何かを拭う仕草をした。
またしても検非遺使、不審そうに質した。
「何だ、有雪? その所作は──陰陽道の呪いの一種か?」
有雪は曖昧に頷く。
「まあな、そんなところだ」
「しかし、改めてこうして見ると……この死に様は恵噲にとっては最高だったかも……」
言ったのは狂乱丸である。
兄の言葉に婆沙丸は耳を疑った。
「こ、これのどこが最高だ? 俺は真っ平だぞ、こんな陰惨な死に方……」
「そうかな? 思い出せよ、婆沙。我等が守護神・摩多羅神には他にもう二つ名があったろう? 〈荼枳尼天〉と、そしてあと一つ、〈奪精鬼〉……」
「あ」
「〈玄旨灌頂〉の什宝、〈八葉鏡〉を盗んだ極悪人・恵噲でも、奪精鬼なら極楽往生させることができよう? つまり、腑を捧げれば良いのだ。ほら、この通り……」
「面白いな」
成澄が興味を示した。
「恵噲を襲った奴が何者であるにせよ、斬りつける箇所はどこでも良かったはずだ」
腰の大刀に触れながら、いかにも検非遺使らしい具体的な言い方をした。
「楼上で深夜、こっそりと〈五眼印〉の儀式を行っていた恵噲は扇くらいしか持っていないから、襲撃者は思いのまま斬りつけることができたはず。それを、頭部や首や胸ではなく、わざわざ腹を切り裂いたってことは……ひょっとして……」
有雪も端整な顔を歪めてニヤリとした。
「なるほど。恵噲を殺した奴は、思いやりのある人間だと、おまえたちは言いたいんだな?」
検非遺使と陰陽師の同意を得て美しい田楽師は嬉しそうに頷くのだ。
「うん、そうさ。随分と心優しい……慈悲深い殺し手に違いない」
同じ血を分けた、瓜二つの双子なのに、婆沙丸は頷けなかった。
裂かれた恵噲の腹部を凝視したまま震えていた。
「幸福かよ、これが? このおぞましい死に様が……?」




