カスカニカスカナリ 16
処は叡山内、文殊楼の前庭。
散乱する数多の扇に混じって恵噲は醜悪な屍と化してその身を曝していた。
それはなんとも形容し難い奇妙な死に様だった。
「うぬ、これは──」
絶句する検非遺使尉。
傍らに立って狂乱丸──成澄の馬に同乗して乗り付けたのである──は細い首を伸ばして背後の楼を見上げた。
文殊楼はちょうど今、欄干に朝日が当たって眩しく照り輝いている。
「あそこから撒かれたのだな、扇と一緒に」
「おっしゃるとおりです」
頷く源空。成澄は田楽師の言葉に首を捻った。
「撒かれた……?」
「これは〈五眼印〉と呼ばれる所作じゃ。〈降魔〉の秘印として伝わっている」
狂乱の歌舞いの伝承者である田楽師は落ち着いた声で説明した。
「ほら、あそこ、文殊楼の二階より扇を投げ落とす儀式じゃ。主に年始に行われるのだが──これも摩多羅神の〈除障〉の所作で、最極の秘印とされている」
「よく……ご存知ですね?」
若い僧は感嘆の表情を見せた。
片や、検非遺使は食いしばった歯の間から悪罵した。
「またまた摩多羅神かよ? その最極の秘印かよ?」
「見てみるといい」
狂乱丸は地面に散らばった扇を指差して、
「撒かれた扇には様々な文言が記されているはず……」
扇の中に横たわる陰惨な屍骸を目の当たりにしても田楽師の声はあくまでも涼やかだった。
「この〈五眼印〉は仏眼菩薩の根本印なのじゃ。〈降魔〉に最も威力があるとか。昨夜、恵噲は楼上でその儀式を行っていたのだろう。そして、その最中に」
「──何者かに殺された?」
引き取って検非遺使が言い切った。
成澄は胴震いした。恵噲の腹部は裂かれていて、臓腑が扇とともに地上に散乱している。
先刻の狂乱丸の言葉通り、まさしく、扇と一緒に己の肉塊を撒いた……
とはいえ、屍骸自体を成澄は恐れているわけではなかった。
穢に触れることを最も忌み嫌うこの時代にあって、死体処理や処刑、そして、戦闘と、最前線に立って汚穢を浴び続ける検非遺使である。自分は〈触穢〉の盾であると成澄は自覚している。
最初の衝撃が去ると躊躇することなく傷を検めた。
「ふむ? やはり、これは自分でやったものではないな。明らかに他者に抉られた傷だ」
恵噲の掌には凶刀を避けようとした際の傷が幾筋も刻まれていた。
「哀れなことよ」
合掌した後、源空を呼ぶ。
「取り敢えず遺骸を移そうと思う。いつまでもここにこのままにして置くわけにもいくまい。貴僧、阿闍梨に何処へ運ぶべきか聞いて来てくれぬか?」
「承知しました」
源空は後ろも見ずに駆け去った。
ほどなく、駆け戻った源空の指示に従って恵噲の遺骸を衛士に運ばせる。
その後で成澄は配下の放免に命じた。
「早急に血を拭い取ってこの場を清めるように」
成澄が放免たちの働きを見守っていると再び源空が戻って来て、遺骸の移送を無事終えたことを告げた。
「今日は明け方から大変だったな、源空殿?」
改めて検非遺使はこの若い僧に労いの言葉をかけた。
「それにしても肝が据わっているな! 年若くても、流石は叡山の学僧だ」
無残な死体を目の当たりにしても動じなかった、その態度を褒めたのである。
「慣れておりますから」
「ほう、あの手の──刀傷の死体を見たことがあるのか?」
「はい、父の時に」
静かに成澄は振り返った。
「貴僧、武士の出か?」
頷く源空に、合点が行った、とばかり成澄も頷いた。
「なるほど! どうりで馬が巧みなはずだ!」
払暁、門を叩いて異変を告げた源空。叡山まで並走して、その手綱捌きの鮮やかさを成澄は見逃さなかった。
「お恥ずかしい限りです。子供の頃から体で覚えたことは忘れないものですね」
「フン」
面白くなさそうに二人の会話を聞いていた狂乱丸が鼻を鳴らす。
ちょうどそこへ放免が一人、近づいて来た。 ※放免=元犯罪者。検非遺使の手足となり働いた。
「検非遺使様、扇は如何いたしましょう?」
摺り衣も鮮やかな若い放免がハキハキと尋ねる。この検非遺使の下で働けることを誇らしく思っているのがキビキビした挙動から伝わって来た。
「様々な形のあれら扇は如何いたしましょう?」
「何だって?」
狂乱丸がギクリと肩を揺らしたので、却って、成澄の方が吃驚した。
「おい、別に驚くことでもなかろう? おまえがその口で教えてくれたんだぞ。扇には様々な文言を書いて地上に撒くのだと。それがこの〈五眼印〉の降魔の所作だと」
「書き記す〝文言〟は様々だが〝形〟は様々ではない! ちょっと、待て」
狂乱丸は改めて地上に撒かれた扇を見て廻った。
やがて、検非遺使の元へ戻って来ると薄桃色の唇を噛みしめて言う。
「扇は細心の注意を払って全て回収させてくれ。一つ残らず、撒かれたままの形で、だ。ひょっとしたら、これは、恵噲から俺たちへの〝祝儀〟なのかも──」
「え?」
成澄は、先日、双子が恵噲と会った事実を知らなかった。会って、〈三尊舞楽ノ歌〉を披露したことを。
狂乱丸は未だそのことを成澄に告げていなかった。
(そうだった、あの夕景……)
去って行く恵噲の後ろ姿に俺たちは叫んだんだっけ。
せめて、祝儀を……鏡の所在を示すもっと明快な〈鍵〉を与えてくれ、と。
あの場では拒否したものの、恵噲は思い直したのかも知れない。
(大それたことをしたとはいえ、本性は清廉な僧に見えた。その面影を残す澄んだ目をしていたもの……)
「どういうことだ、狂乱丸?」
怪訝そうに見つめる検非遺使の視線。
我に返って、狂乱丸は恵噲との経緯を掻い摘んで語った。更に、扇を何故、慎重に回収させる必要があるのか、その理由も。
「この〈五眼印〉は、扇を〝五眼〟に開くのが習わしじゃ。そのことを恵噲が間違うはずはない。、と言うことは──様々な形の扇の中で、正しく〝五眼〟に開いてある扇こそ、恵噲が俺たちに与えた、謎を解く〈鍵〉なのでは? 」




