カスカニカスカナリ 14 ★
水葉の住処の前に婆沙丸は立っていた。
流石に裸ではない。
辻で出会した遊女が気の毒がって──いや、散々笑って、面白がった末に──被衣用の袿を貸してくれたのだ。
女のそれを纏うのに婆沙丸にはさほど抵抗感はなかった。
思えばナミの元へもこんな格好で会いに行ったことがある。何から何まで不思議な因縁に思えた。
(それにしても──今日の昼の内に、聞いておいて良かったな。)
婆沙丸が教えてもらった水葉の住居は鴨の河原にあった。
そこら一体はいずれも似通った粗末な小屋が、文字通り互いに凭れ合うようにして立ち並んでいる。
水葉の小屋はすぐ見つけることができた。が、先客がいた。
蛇使いの芸を売る娘が一人で他にどうやって暮らしを立てているか、それを知らぬほど婆沙丸も無垢ではない。礼儀をわきまえている婆沙丸は十分に距離を置いてそっと待った。
やがて戸口の筵が揺れ、男が出て来た。
その男の顔を見ないようにする分別も婆沙丸には備わっていた。
とはいえ、多少は気にかかる。チラと盗み見るに──
覆面をつけていた。
見送りに出て来た水葉の方が婆沙丸に気づいて先に声をかけてきた。
「あれ? おまえ様は昼間の田楽師?」
「婆沙丸じゃ」
「その格好はどうしたのじゃ? 一体──」
有無を言わさずに抱きしめる。
暖かくて柔らかい娘の体から馨しい香りが零れて、婆沙丸の乾いた鼻腔を擽った。
「水葉は京師に来て、まだ日も浅いのだろう?」
夢心地の夜具の中で婆沙丸は訊いた。
娘は笑って、
「何故、そう思う?」
「あれほどの目立つ芸ならすぐに評判になるはず。それがまだ俺の耳に届いていなかったんだから……」
後見は誰だろう? と婆沙丸は考えていた。京師では芸を披露するにも色々約束事がある。単独で自由に市に立てるわけではないのだ。
「そう、伝手を頼って都に上って──まだ半年ばかりじゃ」
「難波津から?」
「違う。難波津は生まれた処。育ったのは別の場所じゃ」
水葉は訝し気に首を傾げた。
「さっきから何じゃ、何が言いたい?」
「俺と夫婦にならないか?」
流石に娘は息を飲んだ。
「いきなり……何じゃ?」
「俺はおまえが好きだ。叡山であの夜、会った瞬間に恋をした。だから──夫婦になってくれ。ダメか?」
「だめじゃ」
きっぱりと首を振る水葉。
「私には心に決めた御方がいるもの。幼い時から私はその御方だけを思っている」
「さっきの男か?」
答えはなかった。
「俺は、絶対、おまえを幸せにするぞ?」
水葉は白く細い指で婆沙丸の顔を包むようにして持った。
真っ直ぐに瞳を覗き込むと、幼い子をあやすように優しく揺すりながら、
「おまえ様は大層、美くしいの? だが、だめじゃ。美しさだけでは私の心は変えられぬ」
「──」
兄の不吉な予言と争う必要などなかったのだ。
恋した女──水葉が、不幸になるもならぬも、婆沙丸には何の関わりもないことだった。
関わるだけの余地すら婆沙丸にはなかった。
水葉の心は他の男にあった……
払暁。
一夜限りの淡い夢を紡いだ娘の寝床を抜け出た婆沙丸。
歩き出してすぐ、向こうからやって来た一人と擦れ違った。
刹那、足が止まった。
「?」
野暮な行為とは知りつつ、振り返らずにはいられなかった。
さっきまで娘の傍らで嗅いでいたのと同じ香りが鼻先を掠めたのだ。
鼻の利く兄なら、もっとよくわかったろうか?
とはいえ、婆沙丸でも香の有無くらいは嗅ぎ分けられる。
粗末な住まいにも拘らず、水葉が纏っていた香……
場違いと思われるほど高雅なその香りに内心、驚いた婆沙丸だったから。
実際、夜具の中でそのことを褒めると、『臭い消しじゃ』と言って水葉は頬を染めた。
『私は蛇を扱っているじゃろう? あの生臭さを気にしていると、ある人が香木をくれた。親の形見だが自分はいらないから、と譲ってくれたのじゃ。以来、ずっと大切に使っておる。ふふふ……いい匂いじゃろう?』
今になって思えば、香木をくれた〝その人〟こそ水葉の永遠の〝思い人〟に違いない。
「今の男──?」
戻って来たのか、と一瞬、婆沙丸は思った。
昨夜、自分と入れ違いに水葉の小屋から出て行った男と同一人物に見えた。
背格好といい、歩き方といい、何より、覆面をしていて、そこから覗いた双眸に見覚えがあった。
(確かに、以前、何処かで俺はあの男に会っている……)
その男が蛇使いの娘の小屋へ入るのを婆沙丸は引き返して確認した。
(昨夜と同じ男だとすれば──あいつこそ水葉の〝心に決めた御方〟なのだ。こんなに頻繁に会いに来るのだもの。それとも、俺の勘違いか?)
自嘲の笑みが顔を過ぎる。
「馬鹿らしい、どうかしてるぞ?」
覆面をしている人間など今日日、京師には腐るほどいる。
それから、香を燻らせている人間も。
だから、それだけの根拠で、昨夜の男と今の男を同一人物などと思う自分の方がおかしい。
水葉を抱きに来る男たちに対する、悋気から生じた妄想だろうか?
ここで婆沙丸はハッとした。
兄者のこと、『悋気心が強い』などと言ってよくからかっているが──
やはり、俺たちは何処までも瓜二つなのだな?
「見てみろ、俺だって愛する者のことになると、こんなにも嫉妬深い……」
── 何を笑っている?
覆面を着けたまま男が訊いた。
蛇使いの娘は答える。
── 昨夜はおかしな日だったから。
── ほう? どんな風に?
── 『夫婦になろう』と繰り返し乞われた。
── 例の男にか? フフ、ありそうなことだ。
あの男は純情だからな。
あの手の奴は本気になると見境が効かなくなる。
そして、愛する者のためになら全てを投げ出す。
仲間や友人……肉親すら平気で裏切るのさ。
思い出したように覆面の男は娘の顔を覗き込んで尋ねた。
── おい、水葉? よもや、おまえ、
『夫婦になろう』と言ったそいつの願いを
無碍に断ったりはしなかっただろうな?
── ええ、それは、もちろん……
力を込めて娘を抱き寄せると男は囁いた。
── せいぜい期待を持たせてやれよ?
そして、優しくしてやれ。
あの男は今後、まだまだ使いようがある。
娘が何と答えたか、男にもはっきりとわからなかった。
あまりにぴったりと身を寄せた娘の声がくぐもって響いたせいで……
☆当夜の〈蛇使いの娘〉
婆沙丸にはこのように見えていたかも……




