カスカニカスカナリ 13
一条堀川の田楽屋敷に戻って、狂乱丸と婆沙丸は、まず汗みどろになった体を庭の井戸水で清めた。
「……そうだ、兄者が恵噲に言っていた、『曼荼羅の謎を解いた』って、アレは何のことじゃ?」
桶の水をかぶりながら、思い出して婆沙丸が訊く。
釣瓶を引く手を止める兄。
「ああ、おまえは今日、あの場にいなかったものな?」
叡山でのあらましを狂乱丸は説明した。
「有雪が恵噲の僧坊で見つけたのじゃ。ほら、壁に二枚、曼荼羅が貼ってあったろう? 実は絵柄に異なった箇所があって──それが、〝館の中の鹿〟と〝館の上に乗っている鹿〟なのさ。
そこから、上に〈鹿〉もしくは、音の同じ〈六〉の字がついた寺こそ鏡の隠し場所だと成澄が読み取った」
婆沙丸は感嘆の声を上げた。
「それは凄い! あの曼荼羅は俺も見たけど──全然気が付かなかった!」
「俺や成澄が謎の解明に躍起になっている時、おまえは何をしていた? 聞くだけ野暮か。どうせ宛てもなく例の〝蛇女〟を捜し回っていたんだろ? 無駄に時間を過ごしたものじゃ」
自分の言葉にケンがあるのが狂乱丸にもわかっていた。が、どうしようもなかった。
「それが、無駄ではなかったのさ!」
こちらは屈託がない。明るい声で返す婆沙丸。
「兄者、俺は今日、あの娘を見つけたぞ!」
「え?」
娘の名が水葉ということ、東の市で偶然出会ったこと、同業の芸人で〈蛇使い〉であること……今日の出来事を嬉々として弟は兄に語った。
体を流れる水の、幾千の雫よりも燦いているその笑顔。
狂乱丸は目を逸らした。
「それにしても、偶然とは恐ろしいものだ! 水葉は、なんと、ナミと同じ難波津の生まれだそうだ。あんなに似てるんだ、案外ナミの血縁かも知れぬ。なあ、兄者? 兄者はどう思う?」
「諦めろ」
「え?」
「自分の未来にその女を組み入れるのはやめろ、と言うておるのじゃ」
凍りついたように動きを止めた弟。更に兄は言った。
「よもや、おまえ、その女と夫婦になろうなどと考えているのではあるまいな?」
「そ、それは……でも……」
「もしそうなら、俺は許さぬぞ」
「でも、兄者は、前は──ナミの時は許してくれたじゃないか?」
「あの時はあの時だ。俺も未熟で浅墓だった。時間もなかった。だが、あの日より今は考える余裕がある。過ちは二度と犯さぬわ」
キュッと音を立てて唇を噛んだ婆沙丸に、
「なあ、婆沙? 今の内に言っておくぞ。我等はあの狂乱の歌舞いを伝承された身であろう? 今夕、恵噲にも披露した、あの凄まじくも恐ろしい舞いを体に刻んだ我等が、再び常人に戻れるとおまえは本気で思っているのか?」
婆沙丸から返答はない。畳み掛けるように狂乱丸は言った。
「おまえ、未だ悟らぬのか? 我等はもはや常人の暮らしはできぬ身なのじゃ」
ここに至って、弟は言い返した。
「舞いは舞いじゃ! だが、暮らしは違う、人生は違う! 俺は自分の人生まで──命まで〈芸〉に明け渡しすつもりはない!」
「その考えこそ誤りじゃ! あの歌舞いを覚えた以上、我等の体は我等のものではない。我等は摩多羅神に捧げられたのじゃ!」
狂乱丸は声の調子を変えた。
「わからぬか? 俺はおまえのために言っているのだぞ。この間、おまえの愛した女はどうなった?」
婆沙丸の顔から見る見る血の気が引いて行く。
「……それは、どう言う意味だ? 俺が愛した女は不幸になると?」
「その通り、祟られたのじゃ。摩多羅神は恐ろしい神だからな」
鏡に向かって自分自身を呪っているようで狂乱丸は吐き気がした。だが、終いまで言い切った。
「今一度、試してみるのもいいさ。水葉とか言ったな? その娘がどうなるかやってみるといい。もし、おまえに結末を見届ける勇気があるのなら……」
自分たちには普通の暮らしはできぬ。田楽師の兄は悟っていた。女を愛し、子を成し、死んで行く、というような普通の暮らしは。
自分たちは狂乱と婆沙の舞いで摩多羅神を招聘し、喜ばす。
そう、〈円鏡〉や〈八葉鏡〉と同じ〝器物〟なのだ。
そのこと以外には使用してはならない〝特別な器〟……
神に捧げられた儀式の〝什器〟……
それを、一人の女に捧げるなど、神が許すはずがない。
「この間の、ナミの不幸は予め予測できた。それなのに、おまえはまた懲りずに同じ過ちを繰り返すつもりかよ?」
「それは、あくまでも兄者の考えじゃ! 俺は違う!」
「何だと?」
狂乱丸が初めて見る、婆沙丸の激烈な拒絶だった。
弟は桶の水を盛大にぶちまけると叫んだ。
「兄者は考え過ぎなのじゃ! 神に捧げられただと? 儀式の器だと? 馬鹿らしい!」
「婆沙丸?」
「あ、あんなものはただの踊りに過ぎぬ。まあ、田楽よりはちょっとばかし格式張ってはいるが、演目の一つさ! だから、ナミのこと──」
婆沙丸はブルッと体を震わせた。
「ナミが偶々不幸な死に方をしたからって、水葉もそうなるとは限らない! いや、今度こそ、俺は水葉を──愛した女を護ってやる! 俺が、守りきって見せる!」
そのまま──裸のまま──婆沙丸は庭を突っ切って駆け去った。
夜の闇に仄白く滲んだ後ろ姿。ふいに先刻の恵噲の言葉が狂乱丸の脳裡を掠めた。
── 気をつけろよ? 一番近い者が魔である場合があるぞ……
婆沙丸は一体どんな気持ちで兄である俺の言葉を聞いたのだろう?
闇に向かって狂乱丸は囁いた。
「おまえにとって、今日、一番の〈魔〉は俺であったな……?」
弟が飛び出して行って、一人取り残された屋敷で狂乱丸は編木子を鳴らしてみた。
どうやら今宵は成澄も来そうにないし、あの癪に障る橋下の陰陽師すら影も形もない。
寂しいと言うより虚しかった。
体中だるくて力が入らない。久々に〈三尊舞楽ノ歌〉を舞ったせいかも知れないが。
あの歌舞いは本当に体力を奪う。婆沙なんぞ、よくあれほど全速力で駆け去ったものだ。
着物はどうしたんだろうな? まさか、往来を裸のまま走ったわけではあるまい? 自分と何から何まで瓜二つなのだからそれだけはやめて欲しいものだと狂乱丸は苦笑した。
「ったく、婆沙の奴……」
確かに、あいつの言う通り、俺は考え過ぎなのかも知れぬ。
改めてさっきの井戸端での喧嘩を思い出す。
「伝承された歌舞いは歌舞い、暮らしは暮らし、か」
必要とされる時、叡山に呼び出された時、教え込まれた舞楽を披露すればよい、それだけの話かも知れない。俺たちの全てを摩多羅神が欲しているわけでもあるまい。
だが──
狂乱の舞いの所作は深く狂乱丸の身体に巣食って容易にその味を忘れさせてくれなかった。
舞いがもたらす快楽と嫌悪──
そのどちらも忘れられない。
(俺はあの歌舞いにとり憑かれている……?)
それなのに弟は違う。
見た目は瓜二つのくせに、あの弟はいとも軽々と常人の世界に戻れると言う。俺一人を置き去りにして。
「ああ、問題はそこかよ?」
狂乱丸は引き攣った笑みを漏らした。
俺は一人になるのが怖いのか?
とどのつまり、笑って『さあ、行けよ』と弟を愛する女の元へ送り出してやる度量がないだけの話か? 摩多羅神の祟り云々と大層な理屈を捏ねて、独りぼっちになるのを避けようとしている?
「〝一蓮托生〟という言葉もあったな?」
先代師匠・犬王から受け継いだ諸々を俺は一人では担えきれないから、苦しすぎるから、兄弟ともに孤高の道を歩もうと、弟まで引き摺り込もうとしているのだろうか?
開け放した蔀より新月から数えて4日目の薄い月が覗いている。
その夜、田楽師の思いは千々に乱れた。
裸のまま(?)婆沙丸が向かったのは何処……




