カスカニカスカナリ 12 ★
あははの辻の先、善女竜王の棲家とは……
こんなのは謎でも何でもなかった。単に場所の指定に過ぎない。
〝あははの辻〟は、何故そんな不可思議な名で呼ばれるようになったのかは皆目わからないが、二条大宮の辻のことで、都人なら誰でも知っていた。
その次に記された〝善女竜王の棲家〟が指すところは一つ。
「……神泉苑か」
神泉苑──
そこはかつて〈帝の庭園〉として名を馳せた京師の名所である。
代々の帝たちが唐風の建物の立ち並ぶその美しい御苑に遊んだ。
同時に〈祈雨〉の場としても知られた。
その地の池──数万年前は湖底であった名残である──が雨を司る竜王の棲家と信じられていて、雨を呼ぶ〈請雨経法〉や〈五龍祭〉が頻繁に催された。
とはいえ、永久五年(1117)の勝覚僧正を最後にそれら〈祈雨)の行事も耐えて久しい。
今日の神泉苑の荒廃たるや凄まじかった。
京童曰く、『死骸充満、糞尿汚穢、あげて数えるべからず』……
いつの間にか広大な庭園は怖気を振るわせる塵芥溜めと化していた。
都の、しかも大内裏の真ん前に、かくのごとき魔の空間が存在しているのである。
ともあれ、兄弟は急ぎ神泉苑へ走った。
出がけに、ふと思うところがあって狂乱丸は弟に鼓を持たせた。
堀川小路を下り、冷泉院を廻り、あははの辻へ……
丑寅の角の垣から入る……
果たして。
燃え始めた夕映えの中、竜王の池の畔に覆面の男が一人佇んでいた。
「恵噲殿か?」
「おまえたちは……狂乱丸と婆沙丸だな? かの〈玄旨灌頂〉において歌舞いの童子を務める?」
「そうじゃ。その童子の我等に、今頃、何用じゃ?」
「おまえたちが検非違使の手先となって奔走しているのは知っている。私は影から全てを見ているのだ」
恵噲は静かに覆面を解いた。
思いのほか、温雅な容貌だった。
先に会った白昉は人外の美しさだが、こちらの僧は人として清楚で品がある。
「のう? ひょっとしたら私たちは常行堂でこうして対峙していたかも知れぬのだな? それを思うと──人の世とは摩訶不思議なものよ」
これまた、思いの他、優しげな声だった。
狂乱丸は思った。かくばかり清廉な僧侶が、あんな大それた真似を本当にしでかしたのだろうか?
兄が心の内で思ったことを、弟は口に出して訊いた。
「恵噲殿、本当にあなたが〈八葉鏡〉を盗み出したのですか?」
「そうだ」
「何故?」
「魔が差した、と言うより他あるまい」
「では、今からでも遅くありません。あなたご自身の手で鏡をお返しになってはいかがでしょう?」
「いや、もう遅い。何もかも、もう元へは戻らぬ」
「でも、あなたは後悔されているように見えます」
「後悔と恨みは別だ。絶望と憤りも。いったん発火した炎は全てを燃やし尽くして……灰にするまで……それまでは決して消えぬ」
夕焼けの中で僧は言い切った。
「私の味わったような絶望をおまえたちは知るまいよ。
その絶望の折り、私は魔に心を売り渡したのじゃ。その魔が私に囁いた。『鏡を盗み取れ』と。『私を絶望させた輩に最大の嫌がらせをしてやれ』と」
恵噲は一度言葉を切って虚空を見つめた。
独り言のように囁く。
「魔があれほど近くにいたとは……!
私は気づかなかった。幼い日より厳しい行に耐え、勉学に励んで来たと言うのに。その日々の果てに魔は私を待っていたのだな? いや、ずっと……私の隣にいたのだな?」
眼前に立つ双子に視線を戻すと意味深に笑った。
「おまえたちも気をつけることだ。最も恐ろしい者は、最も近くにいる者かも知れぬ……」
ここに至って、田楽師兄弟はこの僧がやはり尋常でないのを悟った。
清澄で柔和な眼差しの奥に測り知れない深淵を見た気がして二人はゾッとした。
恵噲が再び口を開いた。
「今日は願いがあっておまえたちを呼び出した。
これだけはどうしても捨てられない、地上の願いが私にはある。
この場で、例の〈三尊舞楽ノ歌〉を見せてくれぬか? 私だけのために。
偽りでも良い。幻でも良い。私はどうしても見てみたい」
狂乱丸と婆沙丸は互いに顔を見合わせた。
そして、すぐに頷いた。
「諾」
その予感あればこそ、屋敷を出る際、狂乱丸は婆沙丸に鼓を持たせたのである。
狂乱丸は言った。
「所詮、ここに摩多羅神はおられぬ。童子の我等二人だけ。
〝一心三観〟が成り立たない上は、これから披露する歌舞いはマヤカシである。
マヤカシである以上──何処でやろうと勝手。
師の摩多羅神役もこの私、右なる童子が成り代わって相務めます。
では、心行くまでご堪能あれ!」
この日、夕焼けの残照燦めく帝の廃園で〈玄旨灌頂〉の秘技の一つ、〈三尊舞楽ノ歌〉が披露されたのである。
このことを知る者は京師中、ただ一人もいなかった。
宛ら、摩多羅神の宝前に侍るがごとく、師に成り代わった狂乱丸が宣言した。
「玄旨の本尊はこの神明なり!
これを相伝することは千金を超える価値あり……!」
そして歌が始まった。
摩多羅神 「 我ハ其レ 天ニモ住マズ 地ニモ住マズ
但一切衆生ノ心城ニ住ム 心城即チ法界ナリ
摩多羅神ハ神カトヨ
歩ヲハコベ
皆人ノネガイヲミテヌコトゾナキ 」
左ナル童子 「 シシリシニシシリシト 」
右ナル童子 「 ソソロソニソソロソト 」
狂乱・婆沙の兄弟はその名の通り、狂乱の舞いを舞った。
息も絶え絶えに、汗を迸らせ、四肢を打ち振って……
まさしく、極楽と地獄を往還する凄まじき舞踏の態であった。
舞楽の全てが終わった時、再び顔に覆面を巻いて、一揖して、恵噲は去ろうとした。
力を使い果たして地面に倒れ伏していた狂乱丸。肘を突いて体を起こすと必死で呼び止めた。
「待て、恵噲殿! 件の鏡、その手で返せとはもう言わぬ。だが、せめて……在処を教えてはくれぬか? もう十分、叡山の連中は震え上がったわ。これ以上、関係者を──いや、部外者の実直な検非遺使まで狂騒させて何になる?」
恵噲は足を止めた。振り返らずに首だけ降った。
狂乱丸は猶も食い下がった。
「我等は今日、曼荼羅の謎に行き着いたぞ。二対の図柄の差異を見つけたのじゃ。なあ? 〈鹿〉もしくは〈六〉の字が上にある寺、という読みは正しいのか?」
「──」
何も答えず歩き始める恵噲。
「ウッ……」
昏倒した兄に代わり、今度は婆沙丸が叫んだ。
「答えろよ、恵噲殿! 我等はこうして……マヤカシとはいえ、〈三尊舞楽ノ歌〉を……秘技の歌舞いを寸分違うことなく披露したのだぞ! どれほど凄まじい舞踏か、おまえはその目でみたはず」
気を失っている兄を振り返って婆沙丸は声を振り絞った。
「ならばおまえだって祝儀をくれてもよかろう? 本来なら必ず与えてくれるはずの祝儀……今回は謎を解く〈鍵〉でいい。せめてそれくらい祝儀として我等に与えてくれても罰は当たるまい?」
田楽師の懇願は恵噲に届いたろうか?
覆面僧は歩みを止めることなく夕陽の最後の光と一緒に消えて行った。
☆〈三尊舞楽ノ歌〉 これは江戸時代の図柄からのイメージ転写。
二童子は右手に竹葉、左手に茗荷を持っています。
空には摩多羅神を象徴する北斗七星が……




