カスカニカスカナリ 11 ★
促されて成澄は二対の曼荼羅を見比べた。
「うむ。同じ絵柄だな。どちらも手本となった本物の曼荼羅図を模写したものだろう? 恵噲が自ら写し取ったのかも知れない……」
「模写と見たのは正しい。だが同じではない。もっとよく見てみろ」
「?」
顔を近づける検非遺使に、
「俺が見つけたのだ。全く、おまえたちの目は節穴か? 前回ここへ来て何をやっていた?」
いつも一言多い男である。
だが、癪に障る物言いはともかく、確かに図柄は一部分違っていた。
向かって左側の曼荼羅では館の中にいる鹿が、左では館の上に乗っている──
「ううむ……これは一体何を意味するのだろう?」
呻いて烏帽子に手をやる成澄。狂乱丸が憎まれ口を叩いた。
「違いを見つけただけでは何の役にも立たぬものなあ? その意味を読み取れなくては」
「意味ならとっくにわかっておるわ」
勝ち誇って陰陽師は説明を始めた。
「これは鹿だ。そのくらいはおまえたちにもわかるな?
さて、〈館に鹿〉は釈迦が鹿野園で初めて教えを説いたことを表す、曼荼羅では定番の図柄じゃ。だが、こっち、屋根に乗っている鹿とは珍しい……!」
有雪は成澄を振り返った。
「どうだ、判官殿? ここまで言えば鈍いおまえにもわかるだろう? 鹿のいる位置に注意して考えてみろ」
この際、陰陽師の些細な言葉遣いに腹を立てている場合ではない。成澄は懸命に考えた。
「鹿のいる位置? 場所ではなくてか?」
「場所はもう言ったろ? 館は鹿野園の祇園精舎……つまり、僧院、寺を表している」
「……上に鹿の乗っている僧院……寺?」
成澄が手を打ち鳴らした。
「そうか! 上に〈鹿〉の字を有する寺だな?」
満足げに有雪は頷いた。
「その通り、よくできました! 但し、〈鹿〉の字にだけ囚われるなよ。鹿は〝ロク〟とも読む。この際〈六〉も候補に入れるべきだ」
「なるほど! 〈六〉が入るとなると該当する寺は一挙に多くなるな。六波羅蜜寺とか六生寺とか六勝寺……六角堂も?」
凛々しい眉を上げて検非遺使は叫んだ。
「ええい、もはや叡山内に拘らぬ! 京師一円、〈鹿〉と〈六〉の字が上についた寺院全て……厠はおろか境内の隅々まで〈八葉鏡〉が隠されていないか探し尽くすぞ!」
こうなっては一刻もじっとしていられなくなったらしく成澄は一人、馬を飛ばして京師へ駆け戻って行った。取り残された格好の狂乱丸だが、仕方がない。
今日はまだ陽も高く、朝送ってくれた衛士が置いていった馬も一頭あるので帰路も楽なはず。
但し──道連れが最悪だった。
その最悪の、犬猿の仲の陰陽師。相乗りする馬の上で頻りと呟いている。
「ううむ、〈六〉か。ひょっとして〈鹿〉よりもこっちの方が本命かも知れぬ……」
「何の話だ?」
「密教の本尊は大日如来だ。この大日如来の字義を〝六大〟〝六職〟と表示するのだが」
(また、始まった。)
狂乱丸はうんざりした。この男、自分の博識をひけらかすのが生き甲斐なのだ。最大の皮肉を込めて狂乱丸は言ってやった。
「なあ、おまえは自慢話が酒の次に好きだな? 人間を好きにるなんてことはこの先も一生ないんだろうな?」
人のことを成長しないと言っておきながら、だとしたらおまえだって同じじゃないか、と狂乱丸は言ってやるつもりだった。だが、それを言う前に陰陽師は妙に神妙な口調で頷いた。
「かも知れぬ。恋など──あんな思いは二度としたいとは思わぬ」
「恋だと? 待て、それは初耳だぞ! そういう話こそ聞きたいものじゃ。おい、有雪?」
「ふん、それより──」
陰陽師は話題を変えた。
「大日如来を梵語で記した音をそのまま読むと何になるか、知っているか?」
「いや。田楽師の俺がそんなこと知るはずないだろう?」
「……摩多羅神だよ」
有雪の目は真っ直ぐに狂乱丸を捉えていた。
狂乱丸は慌てて視線を逸らした。ちょうど道の奥に咲いていた花に見惚れる振りをする。
「やあ、シキミの花だ! 綺麗だな、 風に揺れて風車のようだ……」
「聞こえなかったのか、狂乱丸? 摩多羅神と俺は言ったんだ。おまえなら知ってるはずだが。この摩多羅神は〈六道の心王〉とも呼ばれて──大日如来の本地仏なのだ」
「それは違う! 摩多羅神の本地仏は阿弥陀じゃ!」
思わず狂乱丸は叫んでしまった。
「ほう、そうなのか?」
有雪は手綱を引いて馬を止めた。
肩越しに今一度、狂乱丸を振り返った。
「なんだ、やっぱり知っているじゃないか。俺は摩多羅神は大日如来と聞いたんだが。ふうん? おまえさんたちのと系列が違うのかな? まあ、いい。この際どちらが正しいかは置いておこう。何やら複雑でおっかない神様らしいものな? 触らぬ神に祟りなし、じゃ」
「──」
自分たちと摩多羅神の関係について、その〝秘密〟を明かしたのはあくまで信頼する成澄だけである。
この陰陽師は一体、何を何処まで知っているのか?
今更ながら狂乱丸は少々薄気味悪くなった。
大体、居候と言うが、狂乱丸がそれを許した憶えはない。先代師匠・犬王の急逝後、気がついたらいつの間にかこの男は田楽屋敷に住み着いていたのだ。
午後も遅く狂乱丸は一条堀川の自邸へ帰り着いた。
有雪の方は、京師に入るなり『これからもう一仕事して来よう』と言って馬から飛び降りると、何処かへ消え去った。
一人戻った狂乱丸に田楽屋敷はいつになく森閑として見えた。
門前に馬を繋いで玄関へ入る。
上がり框に見慣れぬ籠が置いてあるのが目に入った。
それを見た途端、胸騒ぎがした。
「何だ、これは……?」
「おう、兄者、帰ったのか?」
籠の上にひょっこりと婆沙丸が顔を突き出した。
「おまえこそ──いたのか? どうせ今日も女を捜しに町中へすっ飛んで行ったものと思うたに」
「すっ飛んださ! 今、俺も戻ったところじゃ」
「これは?」
兄の視線を追って弟が答える。
「ああ、それか。さっき帰って来た時、屋敷の門前にいた男からいきなり手渡されたんだ。兄者の知り合いかと思って受け取った。何か思い当たるかい?」
「──」
暫く籠を凝視していた狂乱丸、いきなり声を荒らげた。
「たわけが! 婆沙丸、おまえ、いつからこれほど能無しになった? 〈謎の女〉なんかに現を抜かしているからこのザマじゃ!」
「?」
怒鳴られても、しかし、婆沙丸には一向にわけがわからない。
「何だ? 何をそういきり立っている?」
「まだ気づかないのか? おまえはそれでも田楽師──亡き師匠より狂乱・婆沙の歌舞いを伝授された芸人か? この籠の中のものを何と見る?」
「……あ!」
籠に盛られているのは〈茗荷〉と〈竹葉〉だった。
前に常行堂で成澄に〈玄旨灌頂〉の詳細を語った際、兄弟自身が言及している。
── その始まりにおいて、師は授者を率いて無言のまま三回壇の周りを廻る。
その後、摩多羅神の宝殿へ真向かう。
ここで授者は手にしていた茗荷と竹葉を摩多羅神の左右に安置する……
狂乱丸は唸るようにして言った。
「〈茗荷〉は〝愚鈍〟〝無明〟を、〈竹葉〉は〝利生〟〝法性〟を表す」
婆沙丸、大きく息を吸って、
「じゃ……この籠を持って来た者は……?」
「恵噲じゃ! 授者になるはずだった恵噲以外考えられない! それを、おまえ、みすみす逃したな!」
「だっ……しかし……何だって恵噲が、今頃、俺たちの前に姿を現す?」
「そんなこと俺も知らぬ。だが、恵噲じゃ、間違いない! どっちの方向へ去った? どんな風体だった?」
「どっちへ行ったかわからない。見てなかったもの。姿は……僧体だったろうか? それも憶えていない。ただ、顔を布で覆っていた。そう! 覆面姿だった!」
「クソッ!」
思い余って狂乱丸は籠を地面に叩きつけた。
すると、ぶち撒かれた茗荷と竹葉の間から短冊がヒラヒラと舞って、ゆっくりと足元へ落ちた。
そこには文字が墨書してあった。
《 あははの辻の先 善女竜王の棲家 》
曼荼羅拡大図カラーだと細部が見づらいため
モノクロ版を並べました。




