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春の巻 陸

 「相変わらず、ふてぶてしいお顔ですのね。わたくしの心が繊細だと感じさせていただいて、いつもありがたく思いますわ」

 「いえいえ、御礼をおっしゃって頂くにはおよびません。華宮さまは私めよりもずっと心意気がお強いと、兄宮さまからいつも伺っていますから」

 奇妙な光景だなぁ、と小夜は思った。

 華宮と、少し年上の男がひとり。どちらもにこにこと微笑んで、表情とは異なる言葉を交わしている。

 「…いつも、こうなのですか?」

 小声で訊ねると、華宮の乳母・上総は苦笑した。

 「ええ、幼少のみぎりより、お二方は毎度このような感じですよ。あまりに見慣れてしまって、お止めするのも忘れて久しくなりました」

 放っておけばやみますから、落ち着いてお待ちなさい。涼しい顔でそんなことを言う上総が、小夜にはとても頼もしく見えた。


 目の前の男は、近衛府にて中将の任についている。住まいには「枝ぶりが都一美しい」と評判の橘があることから、彼は橘中将と呼ばれるようになった。藤壺の中宮(華宮の生母)や太政大臣とゆかりのある家柄で、華宮とは幼少時より付き合いがあったそうだ。

 ただし、犬猿の仲として。

 上総や藤壺中宮に言わせれば、仲の良い喧嘩友達といったところなのだが、本人たちは頑として認めようとしない。否定する息がぴったりなのがどうにも可笑しい、と周囲はため息をもらすのが常だそうだ。

 「して、そちらの方は?」

 橘中将が小夜の方を向く。突然矛先を向けられ、小夜は慌てていずまいを正した。

 「権中納言が次女、小夜と申します。先日より華宮さまにお仕えさせていただいております」

 「ああ、筝の琴が上手だと聞いているよ。近いうちにぜひとも、琴の音を聞かせていただきたいものだと思っていました」

 「いえ、そのような大したものでは…」

 社交辞令に慣れない小夜は、賛辞をもらっても巧く返すことができない。ただ恐縮するしかない自分が、なんだか無様に感じてしまう。卑屈になってはいけない、尚更情けなくなってしまう、と思うのだけれど。

 そんな小夜の心を知ってか知らずか。人心掌握に長けた橘中将は、にこやかに微笑んで、小夜の心を軽くする言葉をくれる。

 「まあ、そう言わずに。宴など開かれた折には、琴や笛などを合わせる機会もございましょう。その際にでも、聞かせて頂けることを楽しみにしていますよ」

 合奏ならば、小夜の演奏は適度に紛れてしまう。それならたぶん大丈夫、と安堵する心があった。

 「ありがとうございます。橘中将さま」

 流石は物慣れた人の心遣いだと、小夜は感謝を込めて頭を垂れた。この橘中将といい、日々お仕えしている華宮といい、引き合わされるひとは皆、気立ての優れた方々ばかり。見習わねばなるまい、と小夜はひそかに誓った。



 彼は咲宮(さきのみや)に会うついでに、その妹である華宮の居室へと寄ったとのことだった。

 喧嘩ついでの間違いでしょう、とは華宮の言である。

 「ああ、堅苦しい役職名ではなく、どうぞ――」

 「橘中将。わたくしの大事な女官に手を出さないでくださるかしら」

 名前で呼んでもらいたい、と言おうとしたのだろう。その台詞を、華宮がぴしゃりと遮った。厳しい表情のまま、小夜に向かってささやく。

 「この男、方々の女性にこんなことばかり言っているのよ。わたくし付きの女官が、これまでに何人泣かされてきたことか」

 なれなれしく……もとい、気安く言葉をかけられて驚いていた小夜は、橘中将を見やる。整った顔立ちに、よく通る声。

 確かに、弁舌は巧みでありそうだ。苦笑するだけで否定しない様子から、おそらく華宮の言うことは真実なのだろう。

 「物慣れない女性に声をかけてさしあげるのは、男性として当然のたしなみですよ」

 「声をかけるだけであれば、ね。大した用もないのに足繁く通うことは必要ないわ」

 よからぬことを目前で暴露されても、当の橘中将はどこ吹く風。素早く言葉の応酬が交わされるが、ついていけない小夜はただ眺めるばかり。

 「用ならありますよ。近々宴に現れる、噂の琴の名手にお会いする…という、大切な用事がね」

 「嘘でも、そこはわたくしに会いに来たとおっしゃったらどうなの」

 「それは失礼」


 「…………近々?」

 打てば響くような二人の会話。ずっと黙って聞いていたが、ふと橘中将の一言を聞きとがめて、小夜はつぶやいた。

 しん、と場に沈黙が訪れる。しまった、口を挟んではいけなかったのか…と小夜が不安になっていると、二人の表情はみるみる変わった。

 ばつの悪い顔をした橘中将。そして、眉をつりあげる華宮。上総に助けを求めたくとも、彼女は少し前に退出してしまって不在だった。

 沈黙の中、最初に動いたのは橘中将だった。

 「さて、そろそろおいとましますよ。咲宮さまをお待たせしてもいけませんし、ね」

 彼はそそくさと帰ろうとする。その様子に、華宮は声を荒げた。

 「わたくしも聞いていないわ、近々宴があるなんて。しかも、そこで小夜が琴を弾くとは、どういうことなの」

 小夜が宴に出席するとは、当然華宮も出席するということ。彼の口ぶりからすれば、それは既に決定事項のようである。それなのに、華宮でさえその事実を知らないのは、どういうことなのだろう。

 小夜も言葉を添える。

 「あの、わたしも気になります。お願いします、教えてくださいませ」

 何か大きな粗相があっては困りますから。駄目出しにそう付け加えると、むしろ彼の方がずっと困った顔をした。

 情けなげに下がった眉と、細められた目には不思議と愛嬌があって。その様を見て小夜は、これまでこの公達に心を奪われてきた女性たちは、こんな顔が見たくて我侭を言うんだろうか…などと場違いなことを考えてしまった。

 「女性二人に問い詰められたら、答えずにはいられませんね。……残念ながら、今はまだ詳しくお伝えすることができません。ただ、じきに正式なお話がお耳に届くでしょう。それだけは申し上げておきますよ」

 またご機嫌伺いに参りますよ、と微笑んで橘中将は去った。小夜があっけに取られてしまうような、あざやかな去り際であった。


 何かが、動いていた。それだけはわかるのだ。

 けれど一体何が起こるのだろう。それが知りたくてたまらなくて、そして少しだけ怖い気がした。


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