春の巻 伍
興ざめなもの。
花びらが散ってしまった桜。季節は終わったのに、手元に残ってしまった桜色の和紙。
桜が散ってしまうと、途端に物憂い気分になってしまうのはなぜだろう。文机にもたれて、小夜はため息をついた。
ため息をつく間もなく、いつも楽しそうに話しかけてくれるはずの華宮は、今日は不在であった。
年頃も近く、瞬く間に仲良くなった華宮は、まるで乳兄弟のように親しげに小夜に接してくれる。継母や異母姉にいびられ暮らした頃とは天地の差があり、幸せで寂しさなど感じなかった。
そう、話し相手を求めていたのは華宮だけでなく、小夜も然りだったのだ。きっと。だから物慣れぬ宮中で暇をもてあますのは、どうにも居心地が悪くて。
こうしてひとりで居ることは、ひどく興ざめ―――がっかりすることなのだ、と改めて小夜には思われた。
桜の新芽を育てるような、すがすがしい日ざしが射しこんでくる。良い天気だ。
このままうとうとと、まどろんでしまいたい……そう考えていると、そよ風が文机の上の紙をひらりとさらっていった。上質な和紙はかさりと音を立てて床に落ちる。
ああ、憂鬱だ。小夜にため息をつかせるものが、まだあった。
興ざめなもの。
興味本位で送られてくる、恋文。
文から相手が恋に手馴れていることを感じられれば、なおいっそう興ざめである。
名前も覚束ない相手から送られてきたって、小夜には返事の仕様が無い。様々な人と恋を交わして噂されて、それの何がいいの、と思ってしまう。まして、「物珍しいから短歌を送ってみた」という雰囲気の見え透いたものが届いた日には、返事をするのも馬鹿馬鹿しくなってくる。
面倒くさくなって、小夜はいつもの断り文句をしたためた。いわく、
「宮中に入ったばかりのわたくしに、恋文を下さる方がいらっしゃるわけはありません。どなたか、相手をお間違えではないでしょうか」
そんな意味合いの返歌を書いて、下働きの童に託す。こんな文を書くのも、もう何度目か。最近とみに多くなって、もう忘れてしまった。わざわざ短歌を考えるのも面倒で、失礼とは思いつつも、同じ返答を使いまわしている。
◇ ◇
「せっかくの恋文をなおざりにしてしまうなんて、少し、もったいない気がするわよ」
いつの夕暮れだったか。華宮の乳母の上総も、他にお仕えする女性たちも、みな出払ってしまっていて。小夜と華宮ふたりだけのとき、ぼそりと華宮がこぼした。
「わたくしは一体、どこへ嫁がされるのかしら」
普段の華やかな笑顔は、なかった。内親王に勝る身分の殿方は、実の親や兄弟をおいて他に無い。華宮が降嫁することは疑いようも無く、ただ相手が決まってはいなかった。
相手を決めるのは、政略と家柄のみ。そこに華宮の意志はない。
「それは……」
宮中に入って日の浅い小夜には答えられない。誰が身分上適しているのか。どう言えば華宮の不安を取り除いくことができるのか。必死に考えていると、少し笑う声がした。
「いやだ、そんなに考え込んでくれたの?ありがとう」
怖いのだ、と華宮は言った。
降嫁したら、腫れ物の様に扱われはしないか。ただの飾りにされた挙句、世間知らずになって行きはしないか。
「……」
少しだけ、小夜には覚えがあった。
政情を知ろうとしない継母。自分や娘を飾ることにしか興味は無く、それなのに夫の出世が遅いとなじってみせる。気の弱い父は申し訳なさそうに笑っていた。その奥にどれほどの苦労があったのか。宮中で暮らすようになって、殿上人たち(*1)の出世争いを垣間見るようになって、少しずつ小夜にもわかるようになってきた。
「そのお心があれば、宮さまはそのようにはなりません……そう、思います」
自信がなくて、語尾を濁してしまったけれど。自分の考えをしっかりと持つ、華宮の長所が失われてしまうのは忍びない。願いをこめて、小夜はかみしめるように言った。
「そうだといいわね…そう、願うわ」
ただの貴族女性としての、普通の結婚は望めない可能性が高い。華宮も、小夜もそれは同じことで。そんな、乳母にも言えない悩みを、打ち明けられたことが誇らしかった。そう感じていた矢先、華宮は小夜に矛先を向けた。
「ところで、どうして小夜はあんなにも文を嫌がるの?誰か、心に留める人でもいるの?」
「珍しいことを理由に送られる文など、あっても鬱陶しいだけです。納言家の妾腹を本気で娶ろうとするような、酔狂な方などおりません。私の存在が珍しくなくなれば、きっと文も絶えましょう。それを待っているんです。私も世間知らずになるのは嫌ですから、宮さまがお許しくださるなら、嫁がれた先でもお仕えしますよ?」
いつでもお呼びください、と小夜は笑った。
「仕方ないわね。嫌というほどこき使ってあげるわ」
華宮の表情にも笑顔が戻った。
◇ ◇
風に舞い上がった紙が鼻先をくすぐって、小夜は目を覚ました。文机にもたれて、うたたねをしていたらしい。不自然な姿勢だったせいか、こころなしか背中が痛い。
よほど、暇をもてあましていたのだろう…。そういえば、「次は、昼間に」と約束したはずの、名無しの公達は現れない。華宮が居ても構わないとは思うが、こういうときに、他に誰もいない時に現れなくてどうするのだろう、などと八つ当たりめいたことを小夜は考えた。
(……あ、れ)
次の瞬間、はじかれたように起き上がる。
小夜が彼と邂逅を果たしたあの日以来、「名乗らずの公達」の噂はぱたりと消えていた。
枕草子の第二十三段、「すさまじきもの」(現代語訳:興ざめなもの)からイメージを拝借しました。
(*1)殿上人、とは帝のそば近くに侍ることを許された、一定以上の地位をもつ貴族のこと。