春の巻 肆
はらはらとあっけなく散るくせに、思っていたよりもしぶといようだ。
満開の桜を見上げて、小夜はそんな感想を抱いた。
見上げるのは、内裏で丁寧に育てられた桜の木である。一昨夜の雨で散ってしまうのでは…と気をもんでいたが、どうやら杞憂だったらしい。まだ見事な様を見続けていられることにほっとしていると、背後からかけられる声があった。
「まだ見ていたの?桜なら、どこでも見ていられるでしょうに」
「宮さま」
上総を従えて居室に戻ってきた華宮の、声には呆れの色が強い。それでも表情は穏やかで、そのやわらかい目線は小夜に笑いかけると樹上に移された。
「年に一度の楽しみではないですか。咲いている間を見逃すのは勿体ない、と思ってしまうのです」
庇(*1)に立ちすくんでずっと花を見上げ続けるのは自分でもどうかと思うけれど。
寒さを耐えてようやく咲くこの花が、小夜は好きだ。
桜とは不思議な花である。花といえば桜、と言われるようになって久しく、刻一刻と変化する咲き具合もそれぞれが楽しみにされる。蕾が綻んだころや満開の様はともかく、散るさまさえ美しいと評される花は他に類を見ない。冬を耐え抜けば必ず桜が咲く、その様に人々は、辛いことを耐え忍べばいつか報われる日が来るだろう、と希望を持つことができるのかもしれない。
(耐え忍んでみるものねぇ)
耐え忍んだ日々を思い起こして、小夜は感嘆のため息をついた。
内裏に入ってからというもの、小夜の日常は大きく変わった。激変した、と言っていい。
つい数日前までは、屋敷のはずれの部屋にひとりでいた。狭くて湿気のたまりやすい部屋に、ただひとり。母は小夜を産む際に命を落とし、小夜は乳母に育てられた。彼女は物心ついた頃亡くなり、以来小夜は自分の身の回りのことは自分でこなすのが常だった。
それが今や、美しい衣を与えられ豊かな調度に囲まれて過ごしている。小夜をあるがまま受け入れてくれる人々がいる。
これ以上、望むことなんてあるんだろうか。
「そうは言うけれど。一年たったらまた桜も咲くわけですからね」
そんなことを言い放ったのは上総だった。彼女は華宮に仕える女官のなかで最も年かさで、一時は乳母も務めたという。礼儀作法には厳しいが、言葉の裏には華宮に対する愛情が時折垣間見える。
「それはそうよ。咲いてくれなければ困るわ」
「同じように咲くのであれば、翌年の桜は今年の桜よりも良いものにしたらいかがです、と申し上げているんです」
小夜の傍らに並んで上総も桜を見上げた。
「一年経ったからといって、全く同じ年がめぐってくることはありえません。一年後、どうありたいか考えてみるのも、いいと私は思いますけれどね」
ぶっきらぼうな声音でそう嘯くと、上総は踵を返して御簾の奥へと行ってしまった。取り残された小夜と華宮は顔を見合わせるしかない。
心のうちを見抜かれたようで、小夜はただ絶句するばかりだった。
今の自分には、この先に望むものが何もない。これまではそれで良かったのかもしれないが、宮仕えを続けるためにはそうも行かないのかもしれない。
「……びっくりしました」
「何が?」
「私の考えていることをすべて、見透かされてしまったようで。……私、そんなにわかりやすいのでしょうか」
厳密には、何も考えられないことを見抜かれた、というべきかもしれない。まだ小夜が内裏に来て三日。その短期間に思考を見抜かれるほど心情がわかりやすいのだとしたら、実家で義母や父に対して虚勢を張っていたことが急激に恥ずかしくなってくる。
「そんなことは、ないと思うけれど……少なくとも、上総は千里眼を持ってると思うわよ」
「千里眼、ですか」
「そうよ。作法を少しでも手抜きしただけで飛んでくるんだもの。背中にも目がついているのかしら、ってときどき疑わしくなるわね」
それは実におそろしい。宮仕えにあたって自分の作法に自信の無い小夜は震え上がる。
「それって、この前の意地悪な方々よりずっと恐ろしい…ってことになりますよね」
「ええ、もちろんよ。この宮中で上総に敵う者はいないわ」
大真面目な顔で頷きあう。が、数秒も経たぬうちに二人して吹き出してしまった。
「さては、宮さま何度もこてんぱんにされましたね?」
「そうなの。聞いてくれる?怒ったときの上総、ほんとうに容赦がないのよ」
言葉がきつくて、心の底から落ち込むんだから。文句も言いながらも、華宮の表情は笑ったままだ。
「けれど、味方であればこの上なく心強いでしょうね」
「そうね。そう思うわ」
一年後のことなんか、想像できるはずがない。でも望むことが自由だと言うのなら、
こんなふうに華宮と笑い合っていられたらいい、と小夜は思う。
(*1) 御簾や戸の内側が室内、外側が屋外にあたります。平安時代の建造物は廊下や通路が屋外にあり、頭上には屋根の端がありました。この空間を指すものとして庇ということばをここでは使っています。