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春の巻 参

 「ねぇ、………じゃない?」

 「いやだ、……ですもの」

 ひそひそと笑いさざめく声が聞こえる。小声なのに、その音がしっかりと聞こえてきてしまうのは、いったいどういう訳なのだろう。

 「これだから、…………」

 「………をまるで知らないのね」

 声たちは御簾の奥からやってくる。途切れ途切れにしか聞こえないけれど、内容など高が知れていた。

 自分を指して、蔑んで笑っている。御簾と扇で隠した顔はきっと笑いにゆがんで、塗り固めた白粉にひびでも入っているに違いない。さぞ醜い笑顔であることだろう。


 どこにでも、こういう人たちはいるものなのだ。継母と異母姉を思い出して、小夜はこっそりため息をついた。



 紫式部。清少納言。和泉式部。

 いずれも、女流文学を花開かせたことで名高い者たちだ。彼女らは「女房」と呼ばれ、中宮など天皇のきさき、あるいは内親王など、高貴な身分の者に仕えた。内裏に仕える女官のうちでは高い位置におり、その多くは教養や舞楽に優れ、家庭教師や秘書のような役割を果たすのだ。

 「どうして、私がそんな……」

 今上帝の内親王、華宮(はなのみや)に女房として仕える気はないかと父が尋ねたのは先日のこと。

 けれどこれまでにそんな話が出たことも無く、そもそも縁もゆかりも無く。

 小夜にはただ、なぜ、という他に言葉がなかった。

 「以前、太政大臣のお邸に招かれて琴を披露したことがあるだろう。あれが宮さまのお耳に留まってね、大臣を通してお話があったんだ」

 確かに、筝の琴は好きだし、得意ではあった。太政大臣邸に家族そろって招かれ、琴を披露したことも覚えがある。

 華宮は太政大臣の孫娘にあたる。彼から話を受けるならば、小夜も父も内裏において強力な後ろ盾を得ることができる。それだけに、父は大層乗り気であった。日頃寡黙な彼には珍しく、興奮気味に話を続ける。

 「どうだろう?華宮さまは年ごろの近い女房をお探しでいらっしゃる。筝の琴をお教えするのは表向きで、実際の役目は話し相手になってさしあげることだ。行ってみる気はないか?」

 華宮は小夜のひとつ年下だという。

 やんごとなき方から申し出があったとして、大きな理由が無い限り小夜や父が断れるはずもない。


 かくして、桜散らす雨のころ。小夜は内裏へ、華宮に仕える者として参じた。



 (面倒だなぁ……)

 華宮に挨拶を済ませたのが最初。続いて、華宮の生母である中宮に挨拶を…と案内を受けている最中だった。

 廊下を進んでいると、隣接する部屋から嘲笑が聞こえる。

 「いくら宮さまからお話を頂いたといえど、宮中へ参じるなんておこがましい」だの、「身分不相応なのだから断るのが礼儀だろう」だの、そんなことを言われているのだろう。


 小夜の生活は今までこんな嘲笑ばかりだったから、慣れていないわけではない。

 でも、傷つかないと言ったら嘘になる。

 華やかで、憧れの的であった宮中も、所詮はこんなものか。ずっと過ごしていたあの狭い部屋と、何も変わるところはないのか。

 新しい世界に足を踏み入れて、わくわくしていたはずの気持ちが、すうっとしぼんで消えそうになった。



 新しい世界に来たといっても。大して未来がないことは、変わらないのではないのか?



 立ちすくんだ足を奮い立たせて、先に歩いていった案内を追いかけようとする。

 その方向から、戻ってきた者がいた。



 「ごめんなさいね。乳母の上総(かずさ)は足が速くて。初めてだと、迷ってしまうわよね」

 母君と仲がいいから、早く会いたくてたまらないみたいなの。そう言って、華宮はころころと笑った。

 「あ…いえ。お手間を取らせてしまって」

 上総ではなく、華宮その人が迎えに来るなんて。小夜はひどく恐縮してしまった。

 華宮は小夜の恐縮ぶりを見て、続いて御簾の方へと目をやった。笑いさざめく声はまだかすかに聞こえている。しばし沈黙して、華宮は言った。

 「……いいの?」

 「慣れておりますから」

 「でも」

 気遣わしげな視線を向けられて、小夜は少し感動してしまった。これまで陰口を叩かれる一方で、優しくされたことなど皆無に等しかったからだ。

 心配されたことになんとか感謝を伝えたくて、大丈夫だと言いたくて。焦っていたら、つい本音がこぼれた。

 「私には心はありますから、嫌でないわけはありません。けれど、心無い方に嫌と言ったところで、心が無ければおわかり頂ける道理がありませんでしょう」

 御簾の奥の声がぴたりとやんだ。

 そこではたと気づく。御簾の奥の方々がどれほど上の人々か知らないのに、こんなことを口走ってはまずかったのでは。

 小夜が不安になり始めた頃、朗らかな笑い声がその場に上がった。

 「ほんとうね、その通りだわ!では、無駄な努力などせず母君のもとへ参りましょう」

 「あ、はい」

 助け舟を出してくれたのだ、と気づいたのは中宮の部屋にだいぶ近づいた頃。宮中でもまれに見るほどの、愚痴っぽくて意地の悪い間なのよ、と苦笑しながら華宮は教えてくれた。

 「それをいちどきに黙らせるなんて、なかなかいいことを言うわね。胸がすっとしたわ」

 ぽかんとする小夜を見て、もう一度華宮は笑った。


 ああ、場所など関係ないのだと小夜は思った。

 そこに素晴らしい人がいれば、それだけで暮らしは楽しく良いものになるのだと、心から感じた。

 少し未来を考えてみる、そんな気持ちになれる気がした。



 約束を、した。数日前に逢った、名無しの公達と。

 「きっと、また会うことがありましょう。次は昼間に現れますから、顔をよく見せてください。そうしたら、またお話をしましょう」

 良い話し相手ができそうよ、と中宮に伝える華宮を見て。優しげな笑みを向けてくれる中宮を見て。

 あの人はどうしただろう、と考えた。公達であるならば、宮中に居れば容易く会えるはずなのだ。もしも彼が、華宮にお仕えする道を作ってくれた恩人であるならば。一目会って、礼を言わなければ。

 そんなことを、考えた。

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