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春の巻 弐

 目が覚めたら、いつもの朝だった。

 昨夜のできごとは夢だった、とさえ考えてしまった。



 権中納言家の大君(おおいきみ)(*1)のもとへ、文がやってきたのは昨日のこと。

 この文に、北の方(*2)も大君も揃って喜び、紅を衣装をと準備に奔走し、上を下への大騒ぎをした。

 大君に文を送ったのは、都で噂の「名乗らずの公達」だったから。


 贈るのは和歌一つのみ。娘たちを惑わし、名乗りもせず、次の約束もせずに去る。

 そんな名乗らずの公達の素行を、けしからん、と眉をひそめて否定する者たちがいる。

 一方で、破天荒ではあるけれど魅力的だ、と胸を躍らせ肯定する者たちもいる。このような思い切った遊びができるのは、やんごとなき身分の公達ではないだろうか。そんな予想が、じわじわと都に広まってきた折であった。

 貴族たちにとっては、より高貴な身分の家柄と縁続きになる、格好のチャンスである。場合によっては、娘の良縁だけでなく、その父の出世に繋がることも考えられた。


 誰か、名乗らずの公達を振り向かせる娘はいないものか。


 そんな、恋の鞘当てに喜んで参加する姉をよそに、小夜はいつもと変わらない生活を送っていた。

 もともと、妾腹の小夜は北の方にも大君にも疎んじられていた。何かにつけ嘲笑されることの方が多い中、彼女たちの興味が自分から他へ向くのは歓迎すべきことだった。

 「扱いに困る、ためらう。だから、十六夜」

 よく大君が言う台詞を、小夜はひとり真似て笑った。

 恋にも良縁にもチャンスはまるでなく、興味もわかなかった。政略のために適当な家へと嫁がされるか、肩身の狭い独身を貫いて、北の方や大君に蔑まれ続けるのか。

 先はわからないが、どのみち、たいした未来など在りはしなかった。それ以外の道を知らず、また模索する気が起こらなかった。

 ためらっているのは、北の方や大君ではなく、小夜自身の間違いだろう。


     ◇


 夜半に物音がして、小夜は目覚めた。御簾(みす)が微かに揺れている。

 誰かが、いる。

 「だれ」

 はじめは、物取りか何かだと思った。だからつい、誰何の声が鋭くなった。

 自分で自分に呆れる。小夜の持ち物など大君のお下がりばかりで、その多くが季節外れや流行遅れだ。調度のものもろくに揃っておらず、金目のものなどあるはずもないのに。

 「だれなの」

 ここには金目のものなどない、と言う前に、返答があった。

 「……夕に文で先触れをした者ですよ」

 浅くかすれた、若い男の声。いい声をしている。口上から、「名乗らずの公達」だとわかった。小夜ではなく、姉の大君を望んだはずの公達だと。


 馬鹿にしている、と思った。

 大君か北の方にでも、頼まれたのだろうか。間違えて小夜の部屋へ入ったふりをしてほしい、と。見当はずれの恋に期待して舞い上がった顔と、期待が外れて落胆した顔が見たいのだ、と。

 誰のものにもならないからこそ、この公達には好感が持てると思っていた。まさか、こんなに薄っぺらな男だとは思わなかった。底意地が悪いだけの姉や母の、蔑みときつい悪戯に付き合うような。


 (顔を、見てやろうじゃないの)

 家族以外の男性には顔を見せないのが、貴族女性においては一般的。男女のことには、互いの表情さえ見えないほどの、漆黒の闇が好まれた時代だ。

 多くの女性がこれまで彼の訪れを受けただろう。しかし、彼の顔を見た者はいなかったはず。

 てらいもなく、「名乗らずの公達」の隣に立つ。御簾を軽く傾けると、月の光が明るく射しこんで、二人を照らした。そういえば今日は満月だった。

 相手の顔を眺めれば自分の顔も見られる、ということを忘れて小夜は彼の顔に見入った。

 鼻梁の通った、整った顔立ちをしていた。少年のように涼しげな目元が、今は驚きに見開かれていた。

 「文? 先触れ? 姉様なら、そこの御簾を出て二つ先の奥にいるわ」

 強い視線を保ったまま、小夜は告げた。

 馬鹿らしい勘違いなどしない。姉たちの悪戯に、みすみす捕われはしない。

 「――貴女は」

 まだ、茶番を続けようというのか。それにしては表情が驚きのままだ。

 「私? 私は小夜。姉様や北の方はときどき十六夜と呼ぶけれど」

 母と言わず、北の方と呼ぶ。これで、自分が身分の低い妾腹だと通じるだろう。十六夜、「ためらい」という蔑称で呼ばれることまで付け加えた。

 自分で自分を卑下することは、好きではない。けれど、意地の悪い罠に嵌るのはもっと嫌だ。だからこれは、「私を相手にしても仕様がない」というメッセージ。駄目だしに、わざわざ名を訊いてみようか。「名乗らずの公達」に。


 「それで、あなたはだれ?」

 笑って、訊ねた。

 不思議なことに、彼の顔が驚きからするすると和らいで、優しげな笑顔へと転じた。恋多く浮名を流したとは思えないほど、無邪気な笑顔だった。あまりの変化に、今度は小夜が驚くしかない。

 「私は――…貴女と居ることで望月を希める者です」

 あろうことか、誰何に返事さえあった。謎かけのような返事だけれど、よく考えたら手がかりにはなりそうなほどの。


 毒を抜かれた、とはこのことだろうか。優しげな笑顔に、意地の悪さは感じられなくて。

 どうやら、姉たちの悪戯に付き合わされたのではなく、本当に部屋を間違えたらしかった。

 「良いのですか?私に、名乗ってしまっても」

 「構いませんよ。貴女は、口が堅そうだ」

 牽制とも取れる一言に、ちゃっかりしている、と小夜はうなる。確かに、誰にも言う気はしなかった。「名乗らずの公達」の秘密を自分だけが知っている、それはとても心躍ることのように思えた。


     ◇


 あの後、彼は静かに帰っていった。交わしたのは、四半時ほどの会話だけ。

 それでいい、と小夜は思う。彼に惑わされた娘たちの中に、名を連ねる気はなかった。

 そしていつもと変わらぬ朝が来た。父は朝早くに出仕し、北の方と大君は相も変わらず些細なことで小夜を嘲笑する。

 名乗らずの公達に約束をすっぽかされた割に、二人の態度は普段と変わりなかった。矜持が高いから、「現れなかった」とはとても言えないのだろう。

 ひとつめの変化が訪れたのは、早くに父が帰宅した、昼下がりのこと。小夜が呼び出され、珍しいこともあるものだ…と出向くと、父は興奮気味に言った。

 「小夜、内裏(だいり)で暮らす気はないか?」


 いつか、この家を出ろと言われるのではないかと思っていた。北の方は小夜を邪魔者扱いしており、目の前の父は恐妻家。北の方がごねて、ついに折れたのだろうか。未婚の娘を放り出すとあっては体面が悪いから、なにか良い言い訳ができたのだろうか。だいたい、どこに放り出されるというのか。内裏。……内裏?!

 「は?」

 内裏とは、天皇の住まう宮城、内親王や女王、中宮、女御などが暮らす後宮、政務を行う官庁、これら全ての総称である。女性が暮らせるエリアというのは、後宮をおいて他にない。しかし、権中納言家の妾腹ともなれば、天皇や東宮、親王に嫁ぐというのは身分から考えて難しい。

 「とても良いお話なんだ。太政大臣が、華宮(はなのみや)さまに年頃の近い女官をお探しでね。お前をぜひにとおっしゃる。どうだ、お仕えしてみる気はないか?」

 華宮は、今上(おかみ)と藤壺中宮との間に生まれた、ただひとりの姫宮だ。藤壺中宮の父であり、華宮にとっては祖父にあたる太政大臣は、都で絶大な権勢を誇っている。これまで小夜の父は太政大臣派の末席には居たものの、それほど篤く取り立てられることもなく。それがどうして、いきなり自分が女官として出仕することになるのだろう?


 昨夜の出来事がたとえ夢であったとしても。どうやらこちらは、夢というわけではなさそうだった。


*1) 長女のことを大君、次女のことを中君と呼ぶ風習が当時ありました。

*2) 北の方、とは正妻のこと。貴族の屋敷では、北に正室の住まう建物があったことから。


ささやかながら、補足でした。


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