春の巻 拾七
どうしよう。
ただその一言だけが、脳裏をめぐりつづけていた。
厳しい顔をしていた母は、華宮と上総の姿を見とめると、少しだけ相好を崩した。
「良く戻りました。宴は如何でした?お祖父さまとは話せて?」
一見にこやかなその様子に、華宮はかえって身構えてしまったのを覚えている。
「え……あぁ、はい。素晴らしい宴で、皆喜んでいました。小夜の琴も素敵で、お祖父さまもお元気そうで」
「そう、それは良かったわ」
「はい。………あの、お母さま。何か、ありました?」
微笑む母中宮はどこか複雑そうで。はしたないとは思いつつも、話の水を向けられる前に華宮はつい問うてしまった。どのみち華宮が問わなくても、母中宮のただならぬ様子を同席する上総がそのままに置くわけがない。
母はしばし逡巡したが、上総と目配せを交わし、やがて華宮に向き直った。
「ええ。良い報せと、悪い報せがあります」
母は、ふたたび表情を厳しく引き締めた。淡々と語りだす。
「まずは、良きことから。――咲宮が、東宮になることが決まりました」
咲宮が、次代今上である東宮の位につく。それは、華宮や母中宮をふくめた太政大臣一門の悲願であり、ひどく喜ばしいこと。「祈念するための宴」と言いながら、実のところ内々には決まっていたのだろうか。だとしたら呆れる気も少しあるが、他でもない兄が、東宮に就くことを望んでいたと華宮は知っている。これまでの祖父、母、兄の苦労が報われたとなれば、華宮にとってもそれは嬉しいことの筈だ。
「まあまあまあ、おめでとうございます。正式な立宮はいつ頃ですか?」
「まだ本決まりではないけれど、新年の除目の頃を予定しているそうよ」
「それは今から忙しくなりますねぇ」
基本的に表情に乏しい上総だが、珍しく微笑んで寿ぎを述べる。その笑顔に、母中宮の硬い表情も少し綻んだ。けれど、華宮には素直に喜べない。
そんなに喜ばしいことなら、どうして母の表情はこんなにも硬い?母は基本的に強かで、だからこそいつもにこやかに振舞ってみせていた。華宮と上総、気の置けない人物のみの場とはいえ、こんなに厳しい表情をする母を、少なくとも華宮は知らない。
「………」
喜ぶそぶりも見せられず、ただ母を見据える華宮を見て、母はちいさくため息をついた。
「それから、良くない報せですが―――」
どうしよう。
騒々しく足音を立てて駆けるなんて、年端も行かぬ子供のすることで、ひどくはしたないと分かっている。きっと後で上総に注意されるのだろう。それでも、華宮は大急ぎで来た道を駆け戻った。幾重にも重ねた衣服が足にまとわりついて、ひどく不快だった。
衣服に用いられる布地の多さ長さは、そのまま財力を示す指標になる。華宮は今上のただひとりの姫宮で、しかも母方の後ろ盾は権門の太政大臣。当然彼女の衣服は常日頃からふんだんに布地を使ったもので、それを蹴散らすような足捌きでなければ走れない。脚に腕にまとわりつく衣服が、これまでの、そしてこれからの自分を阻む様々なしがらみを想起させて、尚のこと華宮を苛立たせた。
その苛立ちを振り払うように、ただ、駆けた。いてもたってもいられなかった。
(頑張って、頑張って。やっと、ここまできたというのに)
母を、何より上総を、説得するのはなまなかのことではなかった。それでも望みを諦めきれず耐えて、堪えて、ようやく上総に認められるところまで辿り着いたのに。
「このことについて、我侭は許しません」
母中宮ははっきりと言った。それは厳しい声色だった。太政大臣家の勢力の要としての命令であり、華宮に逆らうすべはなく、そもそも命令が正当なものであると華宮にだって判る。それでも、己の道を変えようと頑張ってきた華宮にとって、その内容は受け入れがたいものだった。
(上総は、母さまの味方)
言わば躾けの母として、これまで上総は華宮を育て慈しんできた。表立っては動けない母中宮の代わりに、陰日向なく華宮の味方となり支えてきてくれた。大層心強い味方として。
けれどそれは、上総が母に仕える者だからであり、また母が上総に絶大な信を寄せることに起因する。
(母さまは、独りじゃない。……わたし、は)
絶対的な味方が、ほしいと思った。
たとえ誰と利害が対立することがあっても、何をおいても、自分を認め支えてくれる味方が。自分が、心から信を置ける味方が、ほしいと思った。
(そんなの)
そんなもの、考えられる相手はひとりしかいない。今更彼女以外に託す気も起こらない。
(………さ、よ)
己の子供じみた振る舞いと、彼女をきっと傷つけてしまった今更の罪悪感と。それでも彼女を味方として切望する気持ちと、罰のように降ってきた母の厳しい言葉に、泣きそうだと思った。
華宮視点はまだつづきます。