春の巻 拾五
長い夜が明けた。宴に緊張していたのだろうか、随分深く眠っていた気がする。宴で筝の琴を奏でたことなど、はるか昔の出来事のようだ。
そして夜更けに起きたことは夢だった気持ちさえする……図らずも、いつぞや感じたことと同じ感想を抱いてしまったのは小夜のせいではないだろう。
ただひとつ、ちがうことがあるとすれば。
――<さねのり>と、申します
(……信じられない)
名を聞きたいなんて頼み、拒まれても当然と思っていた。強く拒むのならば諦めよう、と思っていた。相手はあの<名乗らずの公達>で、どの女性から乞われても決して名を明かすことなどなかったのだ。
その、顔と名の両方を知るただ一人に小夜はなった。以前よりも表情豊かなさまを見た。次こそは日中に現れて自分のもとを訪れるという。そう考えると、誇らしいや嬉しいを通り越して、なにやら叫びだしたいような気持ちになってくる。
今朝の自分は、変だ。いつもと違う、のはどうしたことだろう?目を覚ましたこの部屋は、ようやく慣れてきた宮中ではないからだろうか。二条の邸は、太政大臣のもつうちで最も広く調度なども美しいと聞く。華宮の住まう宮中がそれに劣ることはないだろうけれど、見慣れぬ部屋が浮ついた気持ちに拍車をかけている気もする。
(ああ、なんか、もう)
莫迦みたいに言葉が出てこない。
宮中に、帰りたくないとさえ考えてしまった。
そんな自らの考えを、小夜は数刻もしないうちに猛省することになる。
「…………………」
ところかわって、宮中へ戻る牛車の中でのことである。
「…………………」
沈黙に堪えかねて、小夜は何度も口を開こうとした。が、華宮の優れぬ顔色に口をつぐんでしまう。いや、優れないのは顔色ではなく機嫌なのかもしれない。少なくとも、牛車に乗っている間沈黙を保つほどには、華宮の心情は良いものではない様子だった。あくまでも傍目には、宴に疲れてぼんやりと御簾の外を眺めているように見えるのだけれど。
それでも、その様子が四半時も続けばいくら小夜でもおかしいと思う。
(目を合わせないのは、はじめの兆候。口をきかないのも、そうだった)
かつて継母や義姉からうけた仕打ちが、嘲笑いが脳裏をよぎる。これまで華宮にとても良くしていただいて、ひとは急にこんな風に変われるものだろうか?そもそも、華宮に小夜に対する悪意があるなんて、そんなこと小夜は考えたくもないし華宮を疑いたくもなかった。
だと、したら?一体ご不興を買ったとしたら、それはいつ?
(……まさか)
「あの!私なにか、大変な粗相をしてしまったのでしょうか」
宮中にたどりついて、牛車を降りるとき小夜はやっと尋ねることができた。そう、考えられるとしたら宴でのことしかない。太政大臣は褒めて下さったが、琴の腕前など実は大したこともなくて、大変な恥をかかせてしまったのだろうか。宴で誰かと話す間、礼儀知らずな振る舞いをしてしまったのだろうか。それともあの夜、華宮の存在を楯にとったことで不興をかってしまったのだろうか。
尋ねてようやく、華宮は小夜と目を合わせた。ぷい、ときびすを返す。
「母さまに、ご挨拶に呼ばれているから」
(え………っ)
どうしよう、という心がまず先立つ。こんなふうに拒絶されてしまったのは初めてだった。背後で上総が盛大にため息をついたが、混乱の境地にいる小夜の耳には届かない。
立ちすくむ小夜に、見かねた上総が声をかけた。
「そうおどおどするでないよ。あの不機嫌は小夜のせいではないから、安心してお待ち」
「え………でも」
「小夜が宮さまに対して失礼なことをしたわけでもないし、宴の琴も素晴らしかった。私はそう思うよ、それでいいじゃあないの。宮さまは時折あんな風に気まぐれを起こすけど、無駄に引きずったりはしないお方だしね」
それは、その通りだと小夜も思う。華宮はさっぱりとした性格をしていて、それが彼女のなによりの魅力だと内裏に来たときからずっと思っていた。でもあの不機嫌な様子が、単なる気まぐれと言われても小夜にはピンと来ない。
「だいたい、小夜が宮さまを信じて差し上げないと、悲しむのは他ならぬ宮さまでしょう。だから小夜はどんと構えて、宮さまを信じてお待ち」
どんと構えることなんてできそうにもなかったが、確かに小夜にできるのは、華宮を信じることだけ。不安顔で頷くと、誰よりも頼りになる女官は心得顔で頷き返し、颯爽と華宮の後を追った。