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春の巻 拾四

梅雨が明けてしまいました。。話中でまだ春なのが悔やまれます。

ここから、加速していきます!

どうぞよろしくおつきあいくださいませ。

 めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬまに

 雲隠れにし 夜半の月かな



 考えたことが、ないわけではなかった。

 たとえば、実母やその親戚たちが生きていて、義母や義姉からきちんと守られていたら。養われている妾腹、という負い目を一切持たずにただの「権中納言家の中君(*1)」として暮らしていたら。

 今頃は、あちこちの公達からとどく恋文や縁談に、一喜一憂したりしていたのだろうか。一夜限りの幻のような恋も、老いて死ぬまで続いて欲しいと願う愛も、心から楽しむ気持ちがあったのだろうか。

 けれど、現実は違う。

 ないものねだりは時間の無駄だと、素直に思えるようになって久しい。たとえ良い縁談が望めなくても、華宮にそば近く仕える今、自分自身で身を立てる(すべ)を小夜は手に入れたのだ。継母にいびられ続けるかつてと比べたら、格段に状況が良くなったのは明らかだ。降嫁あるいは斎宮に下る華宮に、一生付き従うのも良いとさえ思っていて、だから恋文などすべて遠ざけてきた。恋など一生しなくても構わないと思っていた。

 その、はずなのに。


 どうしてこんなにも、この一言を口にするのが辛いと思ってしまうのだろう?


 「いやです」

 場を沈黙が満たした。



 恋文とは、男が女のもとへ行き逢う許しを得るためのもの。当然その「逢う」には(一夜限りかもしれない)男女の契りの意味合いも含まれている。

 逢いに行ってよいかと尋ねた、公達の言葉がその意味合いをもたないと、どうして言える?

 ここで受け入れてしまったら、小夜は彼に(もてあそ)ばれてきた数多の女たちと同列になってしまう。

 それだけは、どうしても嫌なのだ。


 「いや、です。だめです。だって――まだ、約束を果たして頂いていません」

 思わぬ拒絶に言葉を失う彼に、小夜は言いつのった。

 「………約束?」

 「次は昼間にいらして下さると仰ったじゃないですか!」

 たぶんそれを、どこかで心待ちにする自分がいた。「名乗らずの公達」の噂がぱたりと絶えて、どこかで捕まってしまったのか、あるいはどこかの女性と縁づいたのか、わからずにもやもやとした気持ちを抱えていたこともあった。思い出してしまうと苛立ちが再燃して、さらには目の前の公達が覚えている様子がなく、ついつい小夜は声を荒げてしまう。

 ぽかんとしていた公達の表情が、みるみるうちに変化していく。ほっとしているような、どこか嬉しそうな、非常に困ったような、ひどく妙な表情に。

 「ああ……そうか、そうでした。困ったな、すみません、大変にお待たせしてしまったようで」

 「……」

 待ちくたびれました、というべきか、別に待ってなんかいません、というべきか、小夜は本気で迷った。と同時に、「こういうところだけ(さと)くても困る」という理不尽な苛立ちに支配されてしまう。場を漂った不自然な沈黙を「非常に怒っている」とでも感じ取ったのだろうか、公達が少しだけ申し訳なさそうな表情になる。

 「約束通り、次こそは昼間に伺わせて頂きます。それ以外にも、何か私が叶えられることがあれば、何でもおっしゃってください」

 よほど慌てたのだろうか。何でも、だなんて大層な大風呂敷を広げるものだ。「私が叶えられることなら」なんて予防線を張るあたりが心憎い。「次は昼間に伺います」なんて言葉、社交辞令に過ぎない可能性をもちろん小夜はわかっている。だからこの怒りは子供の我儘か八つ当たりのようなもの。待ちくたびれた自分が少し恨めしいから、この場は有難く申し出に乗ってしまおう。

 先ほど衛士と対峙したときよりも、ずっと冷静でいると思える。怒りを感じた方が冷静になれるものだろうか?わからないけれど、何を言ったものかと小夜は必死に考える。

 「そうですか。では、有難く」

 軽く息を吐いて、眉間によっていたしわをほぐすよう努める。取りつく島もない、というわけではなさそうだと公達がほっとした顔になる。その表情を見ていたら、勝手に疑問が口からすべり出た。


 「貴方のお名前を伺えますか?」



 あなたは、誰?

 シンプルに過ぎる疑問。けれどずっと気になっていた。まだ現れないの、うらめしいひと。心中でそんなことを考えても、その煩悶を向ける名前を知っていた女はいない。ならば、他ならぬ自分が名を知るたった一人でありたかった。

 場をふたたびの沈黙が満たす。満月がにわかに雲に覆われたせいで、彼の顔は判然としなかった。けれど、やがて聞こえるのは押し殺したような、嗚咽のような……笑い声、だった。


 「……っくく、ほんとうに、貴女は手強いひとだ」

 答えねば、衛士を呼ばれるよりも恐ろしいことが待っていそうだ、と彼はひとりごちる。

 「では、いずれ昼間に伺うときに…と言っても、その様子では聞き入れてはくださるまい」

 「もちろんです」

 憮然と答える小夜の様子がお気に召したらしい。しばらく密やかな笑い声を漏らして、やがて彼は言った。

 「確かにここまで助けられている身ですから、貴女には知っておいて頂きたい」

 満月が雲間から現れ、春霞に淡くにじんだ光が二人を照らす。


 静かな声がした。さねのりさま、と小さくつぶやいて繰り返すと彼は目だけでうなずいた。再び視線が交わったその瞬間、一陣の風が二人の髪を衣を乱した。


*1 この時代では長女を大君おおいきみ、次女を中君(なかのきみ、なかつきみ)と呼ぶ風習がありました。この呼称には母方の身分は意識されず、単純に「○○さんちの上のお嬢さん、二番目のお嬢さん」という感覚だったと考えています。ただし、あまりに身分が低すぎて序列に入っていない例はあったかもしれません。。。

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