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春の巻 拾参

 「早く。早くいらして下さいと、橘中将が――」

 その台詞を言った男の風体は小夜にはわからなかった。というのは、男は松明を掲げる衛士たちの背後におり、夜半の闇に紛れていた為である。

 しかし風采などこの際どうでもよかった。前栽の奥に膝をつき頭を垂れた男の、言葉こそが問題であった。

 『西の対に、賊が』

 一瞬にして衛士たちに動揺が走る。ざわざわと驚きさざめく彼らをよそに、衛士の頭は眉根にきりと皺を寄せるが冷静だった。

 「急ぎ、西の対に向かえ。中将様のもとへ」

 配下に指示を出すと、八割がこれに従った。中将からの使いらしき男に案内され、慌ただしくばたばたと駆けて去った。

 小夜も知る橘中将、彼は太政大臣に近しい親族である。太政大臣、咲宮に次いで、この邸を束ねる権を持つ。だから、中将が衛士を呼び集めるのはいたく自然なことであった。

 それは小夜にもわかるのだけれど。

 (……何が、起こったの?)

 しかし、これは一体どういうことだろう?曲者とは、部屋の奥で息をひそめる公達のことではなかったか?間近にいる衛士の目を盗み、東の対にあるこの部屋から短時間で西の対に移動した……とは考えにくい。だからといって、こうも都合よく別の賊が現れたりするものだろうか?

 訳がわからない。先ほどまで必死に張った虚勢などどこへやら、小夜は呆然とするしかなかった。

 ひとしきり配下たちが去るのを見届けると、衛士の頭は小夜の方を向いた。

 「どうやら、我々は思い違いをしていた様です。貴女にも、御休みになられる御婦人にも、大変申し訳なく存じます」

 そう言って、深々と頭を下げる。

 「はあ……あ、いえ」

 助かった、とほっとする余裕があればよかったが、一度気が抜けてしまうとそうもいかない。小夜はまごまごするしかなかった。鋭い目つきから一転したその様子を見て、衛士頭は少しだけ微笑んだ。

 「それでは、私はこれで。大変お騒がせ致しました。どうぞごゆるりと御休みくださいませ」

 再度一礼をして、衛士の頭は残った配下を従え夜の闇に消えた。立ち尽くしてそれを見送った小夜は、なぜ笑われたのだろうとしばしぼうっとしていた。


          ◇


 「衛士たちは、行きましたか」

 背後からそう声をかけられて、小夜は飛び上がった。まだ誰かいたのか――とひやりとして、振り返る。御簾の奥にいたはずの公達が、すぐ後ろにいた。

 (び………っくりした)

 混乱に次ぐ驚きで、言葉が出てこない。そうです、とも言えず小夜はこくこくと首を縦に振った。

 心臓に悪いことは、やめてほしいとちらりと思う。

 そう、背後から囁く浅くかすれたその声も、小夜しか知りえない整ったその顔立ちも、手を伸ばせばすぐ触れられてしまいそうに近いその距離も、気がついてしまえばひどく心臓に悪い。

 「衛士たちをやり過ごすつもりだったのですが。助かりました」

 ありがとうございます、と微笑まれても困る。やはり心臓に悪くて……そして、小夜にできたのは時間稼ぎだけ。衛士たちを部屋に入れずに別の場所へ促すことはできなかった。運よく「西に賊が」と知らせが来て、結果それで助かってしまったのは小夜も同じ。

 「私には……なにもできていません」

 ちょっと琴が人より得意で、ちょっと人より宮様に気に入られて。それだけでいい気になって調子に乗っていたのかもしれない。自分が誰かのために「何とかしなければ」と思っても、その時にそれが果たせなければ仕様がない。

 どんどん落ち込む小夜を浮上させたのは、密やかな笑い声だった。

 「とんでもない!貴女の時間稼ぎがなければ、衛士に踏み込まれていたことでしょう。こう見えて、私の顔は意外に割れているんですよ。もしそうであれば、宴の客だとごまかすことは難しかった」

 「……都中の御婦人がたにはずっと、名無しの権兵衛を貫いている割に?」

 「ええ、そうですよ」

 「ひどい人」

 厭味のような台詞をしれっと交わす表情を見て、小夜の顔にも微笑が戻ってきた。


 しかし宴の客ではないとしたら、彼は一体何をしにこの二条邸にやってきたのだろう?あらためて彼をまじまじと眺めれば、比較的良い身なりをしている。まさか本当に賊というわけではあるまい。

 「ああ、それは」

 はぐらかされると思っていたが、尋ねたところあっさりと彼は答えた。

 「咲宮さまに言祝(ことほ)ぎを差し上げたくてね。東宮になられることを祈念するなら、言祝ぎは多いほどいいはずなんだが、生憎太政大臣の覚えはいまいちでね」

 それでわざわざ宴に忍び込んだというのか。小夜はあきれ返った。

 「それなら別の機会にきちんと言祝ぎを差し上げればよかったのに……。衛士に捕まっていたらどうするおつもりだったのですか?運よく別の賊が現れたから良かったものの」

 「ああ、あれは口実だろうね」

 「………は?」

 衛士を大勢動かしておいて、口実、つまり嘘だったなんて。なんということを軽々しく口にするのだろう、この人は。しかもそんな嘘をついて賊を逃がしたことになれば、先ほどの男はただでは済まされないはずなのだが。

 「ああ、心配するには及ばないよ。先ほどの男は私の乳兄弟で、惟定(これさだ)という。西の対にいる知人に繋ぎを取ってもらっていたんだ。公昭ならたぶん事情は分かっているだろうから、適当に有耶無耶にして誤魔化しておいてくれるよ」

 だけどこれだけ騒ぎになってしまっては、咲宮さまに言祝ぎを差し上げるどころかご挨拶さえ難しいね。仕方ない、日を改めるとしよう。そうひとりごちて、彼は苦笑した。

 「……そうですか」

 では役に立ったのは結局、彼の乳兄弟と彼の知人ではないか。助けなければ、と意気込んだ自分が今更ながらに恥ずかしくて苛々する。声にかすかに滲んだ不機嫌を敏感にも嗅ぎ取ったのか、彼はもう一度微笑んだ。

 「衛士を動かす口実があったとして、衛士を引きとめる者がいなくては意味がありません。繋ぎを取るため惟定を遣ってしまった後だったので、協力者は不在でしたが、どうしても時間稼ぎが必要だったのです。それを貴女が務めてくれた」

 辛抱強く、ゆっくりと公達は繰り返す。小夜のお陰で助かったのだと、言い聞かせるように。

 「私が失う立場など高が知れているけれど、それでもことが公になるのは恐ろしいと思う。本当に、感謝の言葉もありません。衛士が戻る前に私は退出しなければなりませんが、ここで逃げるだけの恩知らずではありたくない」

 彼はここで一息つく。こんなお伺いを立てるのは奇妙なことだとは存じていますが、と前置きをして、呆然と聞いているだけの小夜をまっすぐに見つめた。

 「何かお礼を差し上げたい。いつかの夜は部屋を間違ってしまいましたが、今度こそは貴女のもとに、伺ってもよろしいですか」

 まるで恋文のような台詞だと、頭のどこかがぼんやりと考えた。


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