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春の巻 拾壱

 潮時だろう、と思った。

 「もう疲れてしまったよ。夜も更けた、流石に眠らせてくれるかな」

 疲れたのは事実。眠りたいというのは嘘。体のいい口実を盾に、のんびりと独りで飲み明かしたい気分だった。

 十日の月は南天を越えて、屋敷の屋根の向こうへと隠れる頃合いだ。広く宴に適した二条の屋敷も、夜半をとうに過ぎた今となっては寝静まった人が増えて閑散としている。

 彼――咲宮の周辺を除いては。


 権勢を誇る太政大臣の屋敷で、「咲宮が東宮へ選ばれることを祈念する」為の宴が始められたのは数刻前。主役である咲宮は太政大臣と同様に、来客の対応に追われていた。

 「夜更かしは老体に響いていかん。老いぼれは早いうちに退散するよ」と慣れた様子で太政大臣が宴の間を去ったのは夜半前のこと。人あしらいも東宮や帝の役目のうち、とこの時間まで耐えてきたが、そろそろ限界だと咲宮は感じていた。

 退散を告げると、眠気を耐えて残った者たちから不満の溜息が洩れた。

 「いやはや、御若いのですからそう仰らずに。まだお目通りを願う者たちもこうして参じておりますし」

 「うん、こんなにも多くの方にお集まり頂けるとは思っていなかった。本当に有難いことだけど、やはり緊張もするものだね」

 食い下がる者に苦笑いを向ける。なかなか闊達で興味深い会話のできる者だとは思ったが、度を越した粘り強さは気遣いを伴わなければ無粋なしつこさとして映るだけだ。繰り返し告げられた名は適当に忘れるか、あるいは良い様に使わせて貰うことにしよう、と心の内に誓う。

 にこやかに腹黒いことを思って、小さくため息がもれた。彼のにこやかさは父帝譲り、腹黒さは母中宮譲りだ。両方あって非常に便利だと思うのはいつものこと。所詮東宮や帝たるもの、宮中に巣食う狐狸のごとき貴族達との化かし合いに負けぬには、腹黒さは必須事項である。

 そう、にこやかに無害を装う咲宮とて、野心はあるのだ。遠からず先、帝として即位すること。お飾りでなく実権を持つこと。

 野心のために譲れないこともあれば、野心のために諦めねばならぬものもある。野心ある我が身はむしろ好きだが、諦めるものを思えば切ない気にもなる。

 (……たとえば、この腹黒さを知らず慕ってくれる人とか、ね)

 東の対屋に思いを馳せて、彼は再びため息をつく。西の対屋が騒がしいことなど、放っておくに限るのだ。



 怖い。

 助けて誰か。助けて。

 誰かって、……誰がいる?わからないけれど、誰か。助けて。

 恐慌状態に陥る小夜の耳に、そのとき声が飛び込んだ。

 「静かに。何もしない――ただ、匿ってほしいだけだ」


 どこかで、聞いた声だった。浅く、微かにかすれた声。

 静かで冷静な声に、小夜の心も落ち着いていく。もがくのをやめると、腕をつかむ力が緩んだ。その隙を見計らって素早く抜け出すと、手近にあった御簾をがばりと持ち上げる。

 月明かり。それから、少し離れた背後から、みかきもりの炎が部屋の中を淡く照らした。

 「!」

 薄明かりにぼんやりと浮かぶのは、小夜だけがその顔を知る男。ぱたりと噂の絶えた、「名乗らずの公達」だった。

 「……貴女か」

 この邂逅に彼もまた驚いたのだろう。いつか見たのと同じ表情をしている。整った顔立ちも、驚いた表情になるとどこかあどけなくて親しみがわくと思った。ぼんやりとそんなことを考えながら、ただ茫然とその顔を見つめた。


 「なんだ、貴女だったのか。顔を見られて如何しようと思っていました」

 彼の驚いた顔はやがて安らいで、優しげな笑顔へと転じる。小夜は返す言葉もなくそれに見とれた。そう、この笑顔が見たかった。いつかの約束通り、明るい日の光の下で。こんなにも心許ない火明(ほあ)かりの下ではなく。

 (だって、そうでないと他の女たちと一緒になってしまうから)

 彼の、「名乗らずの公達」の顔を知るのは小夜だけ。その事実を嬉しいとは思うものの、それだけでは我慢できない気分がするのだ。ただ恋を楽しむことだけを望んだ他の女たちと、同じ様にはなりたくない。

 ただの恋の相手になどなりたくない。

 自分の胸の内に矜持を強く感じたそのとき、前栽(せんざい)(*1)の方が騒がしくなった。松明の炎がちらちらと揺れている。衛士たちだろうか。そういえば彼は「匿ってほしい」と言っていた。

 慌てて小夜は御簾を閉じる。ぐいと彼の腕を引いて部屋の奥へと移動し、そのまま息をひそめた。徐々に外の騒ぎが大きくなり、やがて男が呼ばわる声がした。

 「もし、どなたかいらっしゃいますか」

 一際大きい声。きり、と眉根を引き絞り小夜は覚悟を据えた。ままよ。

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