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春の巻 壱

 誰にも御名はお教えくださらないのですね、そうこの間の女官は言った。寂しげに笑って。

 せめてお名前の手がかりだけでも、と後朝(きぬぎぬ)の去り際に衣の裾にすがったのはどこかの姫君。

 ことの最中に名を呼んで欲しいと請われ、彼女たちの名を聞いたはずなのだが全く思い出せない。そもそも、端から覚える気などなかったのだろう。一度訪れた女の元へと、自分が再び通うことはないのだから。


 「だから楽しいんじゃないか」

 手折った桜の枝をもてあそびながら、高欄(こうらん)に腰掛けた青年はぽつりと呟いた。聞き捨てならぬことを、と苛立たしげにぼやいたのは近くの柱に寄りかかり立つ別の青年。

 「『近ごろ時めく御方』とやらは衣はおろか、後朝の歌さえも交わしてくれぬともっぱらの噂だろうが。そんな非道い男に娘の元へ通われてはたまらんと、あちこちの家が警備を厳しくしているんだぞ」

 「……それで?」

 「だから俺が通う場所がなくなるじゃないか!!」

 竹馬の友の言い分に、彼――実朔(さねのり)は呆れた様子で溜め息をついた。

 「それなのに姫君たちの間ではそいつの評判はとどまることを知らない。俺が面白いわけがないだろう」

 公昭の苛立ちはおさまらず、男らしく精悍な顔立ちが負けず嫌いゆえに歪む。

 ひところ前までの「都でもっともステキと噂される公達」であった公昭(きみあき)にとってみれば、確かに面白い事態では決してないだろう。


 時は平安の世、風雅をなによりも重んじる貴族たちにとっては、恋愛もまた優雅でなければならないもの。様々な伝手をたどって姫君と文を交わし、許しが得られれば夜に忍んで行って愛を交わす。後朝といって、ことの後の朝には日が昇るよりも先に男は退出し、別れを惜しむ和歌を交わすのがこの頃の恋愛の典型。香を焚きしめた衣を取り交わすこともしばしばだ。公昭はそんな恋愛を得手としていたが――一方の実朔は常識破りと言っても過言ではなかった。

 いわく、先に交わす文はただ一通。それも「今夜貴女の元へと忍んで参りますゆえ、戸の掛け金は外しておいてください」という意味合いの和歌。夜陰に紛れてであるために手引きをした女房たちにも顔は知れず、手がかりは浅くかすれた若い男の声のみ。それはそれで扇情的かもしれないが、ことの後には和歌も衣も次の約束も交わすことなく、まるで女を捨てるかのように出て行く。そのために夜毎枕を濡らした女性がどれほどいるかとまことしやかに噂は告げる。


 悪かったよ、とつぶやいて実朔は肩をすくめた。俺たちの評判なんてすぐに逆転するさ、とうそぶく。

 「どうせ俺は、名前なんて告げた日には一生の独り寝が決まるんだから。『朔宮(さくのみや)』だなんて、難儀な名前をつけたものだよ、父上も」


 自嘲気味に呟いた。

 朔宮、その名は帝の長男皇子であることを示す。長子といえど、実朔の地位は高くない。というのは、彼の母方はあまり権力を持たないからだ。

 父の跡を継ぐこと、良い官位や良縁を得ること、これらには母方の祖父の地位と権力がものを言う時代だ。祖父亡き実朔にとって、東宮(次の帝)になることなど不可能。貧乏貴族への道を歩むか、早々に姓をもらい臣下に下るか、どちらかが関の山だ。

 太政大臣の娘である藤壺中宮が生んだ咲宮(さきのみや)が、いずれは東宮にと指名されることだろう。帝のご意志は明かされていないが、誰もがそう確信している。

 別に、東宮の地位など惜しくはない。五つ年下の咲宮は自分を兄と慕ってくれていて、だから彼が次の帝になればいいと実朔は思う。それでも――いつだって、宙ぶらりんの立場に居心地は悪かった。幼い頃ならば公昭と他愛もない悪戯をして晴れた心も、近頃では余計に曇ってゆくばかり。


 「だからって、なあ!」

 そんなことを言うな、と言いたげに憤りを隠せない公昭。彼をよそに、実朔は高欄を飛び降りた。白い狩衣(かりぎぬ)の裾がふわりと揺れる。帰るよ、と短くそれだけを伝えて彼は家路についた。今日もまた、眠らない夜を過ごすことだろう。それまで、さして深くもない眠りを貪るために。


     ◇


 月の明き夜だった。夜風になぶられて薄紅色の花びらが中を舞う――桜朧月。こうしてその夜の相手の元へと忍んでいくとき、実朔は自分が夢魔にでもなったような心持ちを覚える。夜毎違う相手をゆめうつつに惑わし、朝になれば実態などなかったように消えていく。

 それでいい、と思う。朔宮のこの名は、長子であるということ以外に深い意味はないだろう。それなのに、まだ足りない、物足りないと心のどこかで声がする。十四日をかけて満ちていく月の「はじめ」、欠けたままの月の名による呪いでもあるのだろうか。

 そんなつまらない思考を風がさらっていくころ、実朔は目的の屋敷に着いた。


 風雅な屋敷、そこかしこに心配りがゆきとどいていて――ただ、それだけ構造は複雑だ。人の気配に居眠りから目覚めた衛士(えじ)から見つかりそうになって、慌てて近くの御簾から部屋の中へと滑り込んだ。

 ほっと息をついたのもつかの間、「だれ」と小さく呼ばわる凛とした声に飛び上がることになる。

 「だれなの」

 声は小さく、けれど侵入者の存在を確信して発せられた。若い女性の、高すぎも低すぎもせず、清廉な印象を与える声。

 「……夕に文で先触れをした者ですよ」

 実朔はいつもこう告げるようにしている。飛ぶように噂の回る都では、これが『名乗らない謎の公達』である合図だと皆がもう知っているからだ。そしてこう告げれば相手は闇の中で頬を赤らめ、温もりが寄り添うのを待ちわびるのだと実朔も知っているから。

 しかし彼女は他の女と違い、さっと床を出て立ち上がり、まっすぐに実朔を見据えた。黒目がちの瞳に、満ちた月が映し出される。

 それを見つめ返す自分の瞳にも、この満ちた月が反射して映っているのだろうかと、呆然と実朔は考えた。尋ねたら、答えてくれるのだろうか。この姫君は。ひとすじ芯の通った、張りのある美しい声で。


 「文? 先触れ? 姉様なら、そこの御簾を出て二つ先の奥にいるわ」

 呆れた様子もなく、若い男の声に怯えることもなく、淡々と声は告げた。その声に、ぼんやりと考えていた実朔は我を取り戻す。

 どうやら目的の女性の妹の部屋へと入ってしまったらしい。けれど彼にとってはそんなことはもうどうだってよくて。

 「――貴女は」

 思えば、女性に名を尋ねたことなどこれが最初だったように思う。先に名乗らねば失礼にあたることなど忘れて。

 「私? 私は小夜。姉様や北の方(正室)はときどき十六夜(いざよい)と呼ぶけれど」

 彼女は、そう言って少しだけ笑った。表情が動いて、人形のような風貌に命が宿ったように見える。

 大納言と身分の低い女の間にできた娘。邪魔な存在を憎むあまりにつけられた「ためらい」という蔑称が、これほど愛しいと思えたのは初めてだった。

 「それで、あなたはだれ?」

 「私は――…貴女と居ることで望月を希める者です」


 ついたちの月と、十六夜の月。逢わせればそれはそれは綺麗な望月ができあがる。きっと安らいだ、満ち足りた日々を送れることだろうと、御簾を掲げた月明かりの下、実朔はそっと笑った。


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