Widow・Maker
「少々、薬が効き過ぎたきらいがあるのぉ」
杯を傾けながら書類に眼を通し続けるリヒテンシュタイン宰相に、アルトはため息を一つ着いて、杯の中の酒を飲み干した。
やや濁りのある琥珀色の酒は、まだ若い様で、少し当りが強い。それはそれでと、きつい当りを楽しんだアルトは、自分の杯を再び満たした。
「いや、本来の目的とは少し逸れてしまった。思った以上に、貴族に対する意識と言うのは強かったんだな。俺のいた世界では、既に廃れてしまった感情だったからな、読み間違えた」
「確かにのぉ、聞いた所だと、規律に対する遵守と言うよりは、お前さん自身への恐怖と衝撃。どうも、そちらへと意識が向かっておるの」
「最悪、俺が規律の権化になって、兵を引き締めれば良いさ。訓練にも身が入るだろう、怖い親父の下で…そう言うのは、万民に共通する物だろ?」
「そんな若い身空で、何が親父じゃね。嫁さんを貰ってから言うんじゃの」
腹のそこから笑う爺さんに、アルトはやや憮然とした様子を見せながら酒を飲み続けている。
「しかし、訓練が厳しすぎるのではないかの?兵達は、皆涙を流しながら訓練をしておったと聞いたぞ。他の教導官達も怖がっておったそうじゃが」
「命を懸けてもいない訓練では、戦場では瞬時に死ぬだろうな。少なくとも、実際の戦場よりも先に地獄を見て、そして始めて戦場で生き残れる。それすらも、それすらも危ういんだ。今のうちに、吐ける反吐は吐き尽くした方が良い」
「優しい事じゃの」
爺さんの眼が細められる。やっと書類から眼を離し、執務机から立ち上がった。アルトに向かい合うように座り、杯を干す。
「フレッドは、あいつは人を数字では認識できないタイプの人間だろう。いや、出来ない訳ではないだろうが、傷つく事には変わりない」
「あの子は、良い子じゃからな」
「そうだな。こんな貴族社会でよくも残った物だと思うよ。フレッドも、ミリアも、それに不肖の弟子も」
「なぁに、お前さんも良い子じゃよ」
照れた様に、顔の前で手を振るアルトに、実に楽しそうに爺さんは笑う。
「さてと、この爺を楽しませに来たわけではあるまい?今回は何のお話かの。無論、酒に付き合うだけなら、これはこれで楽しいがの」
アルトは、静かに杯を卓に置いた。そして、執務机に山の様に積みあがる書類を見つめる。
「なぁ、爺さん」
「なんじゃね?」
「爺さん。あんた、死ぬ気か?」
アルトの言葉に、爺さんは何の反応も返さない。ただただ静かに酒を干している。
「俺の居た世界でな、千軍は得やすく、一将は得がたいという言葉があった。有能な個人を得る事は、烏合の衆を千々と集めるよりも難しいと言う意味だが、この国はむしろ逆だ。将は居る、勿体無いほどの将が居る。だがな、文官は如何だ?財務は、政務は、外務も内務も纏めて爺さんが直接監督、そんな状況が何時までも持つ筈がないだろう!」
息を荒げ、立ち上がりながら弁を振るうアルトだったが、爺さんの反応は薄い物だった。
「お前さんの言った通りじゃよ。人が居らん。こればかりは、どうしようもない事実として受け止めざるをえん」
アルトは、顔を手で覆う様に隠し、力なくソファーに座り込んだ。
「ここでも、ヴェスター宰相の弊害か…」
これに関しては爺さんも同意見だったのだろう、力なくではあるが、頷いてみせる。
ヴェスター宰相。
既に故人ではあるが、シュトラウス将軍を筆頭に、多くの弟子や関係者が居り、ある種の不可侵的な影響を今も色濃く残している。
「軽く調べただけでも、非常に優秀な人間だったのは分かる。軍関係から財務、外務、内務、全てに関して影響を残しているなんて、ある種の超人だな。だが、良くも悪くも超人過ぎた」
1人で何でも差配してしまっただけ、中間の管理者が育たなかった。さらに、推測ではあるが、感情と国論の基本が軍に傾いていた様で、能力の高い人材を軍に多く振り分けていた。戦時下であると言う事も大きく影響して、軍には将が揃いったが、他の方面では、とうの昔に限界が来ている。
「あの時代は、国を外夷から守るだけで精一杯、それ以上を望むのは難しかった。そして、現状が当時よりも悪い訳ではない。ならば何とかなるじゃろう」
「爺さん。俺は勿論、この国の誰も宰相と言う職業を、後家作りにしたいなんて思っていないんだ。ヴェスター宰相ですら、超人と評した彼ですら、若くして死んだんだぞ」
過去、後家作りといわれる職業、役職、もしくは職場があった。
ある船の船長はなぜか若死にする。その職に就くと死ぬ。その階級になれば死ぬ。ある人間と働けば死ぬ。
それらは、何も呪いと言う訳ではない。単純な理屈が、本当に単純な理屈が、それを現実の物にする。
先進的な職場で、個人の能力を超えた業務内容。
それが、後家作りの一番大きな原因となる。
そして、それは多くの場合、超人的な能力を持った人間が、先にその職についていたことが理由となる。
不幸にも、超人がその職業を、一般人には賄えないほどの激務をこなしてしまった為、その職業が定着する。しかし、超人がそう何度も輩出されることは少ない。結果として、後任の凡人は、その激務に耐え切れないのだ。
「後家作り、確かに激務には間違いない。しかし、ヴェスター宰相はこなしておった。わしとて、後任を育て、部下を育てる間ぐらいは持たせる事が出来るじゃろ」
にこやかに笑う爺さんに、アルトは頭を抱えて首を振る。
「自分でも信じてないだろ、爺さん。なぁ、爺さん、今は貴族が好き勝手していた当時とは違う。純粋に周囲は敵だった当事とは違う。全部の内容を1人でなんて、ヴェスター宰相が生きていたって、いや2,3人いたって無理だ。そんな事は、あんたが一番分かっているだろ」
笑みを崩さず、穏やかな爺さんに、アルトの焦燥は加速度的に上昇する。眼からは、既に殺気に近いものを放っているが、それでも爺さんは揺るがない。
「のぉ、アルト。おぬしが嫌われ役をしてまで軍を纏めようとしておるのは何の為じゃね?」
「それは…それは、別にたいした事じゃない。出来ることをしているだけだ」
「わしもじゃよ。お互いにそれだけのことじゃろ」
何も言えず、言葉に詰まり、アルトは拳を振り上げはしたが、結局脱力してため息をついた。
「幸せが逃げるぞい」
「莫大な世話だ。頑固ジジイ」
「お互いに、犬馬の労を惜しまない、それで良くはないかね?」
「泥被りか…」
アルトの顔には苦笑が浮かぶ。
「裏方仕事は嫌かの?」
「いや、望む所だ。だから、爺さん。俺も泥被ってやるから、もう少し慈愛してくれ」
「年寄り扱いしてくれるとは優しいのぉ。やっぱりお前さんは、良い子じゃのぉ」
ほっほっほと高らかに笑うリヒテンシュタイン宰相に、照れた様子のアルトは吐き捨てるように呟いた。
「ジジイをジジイ扱いして何が悪い」
それを聞いた宰相は、さらに笑みを強めて、大きく笑う。
腹を押さえながら笑う宰相の目には、一筋光る物があった。
「子供を、子ども扱いしておるだけじゃて」
「クソッ。頑固ジジイが」
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