中編 ガチャを前提にする、家族の在り方を考察する。
親ガチャなる表現の出現によって、ある概念が隠れていたことに気が付かされました。
それは、子ガチャです。
聞いたことが無い表現であり、使っている人はどこにもいませんし、居るはずもありません。
何故なら、私の造語になるからです。
この文章を書きながら、ああ、そういうことかと気が付き、あえてそう命名しました。
どうしてこう思ったのか、親子関係から説明します。
親が自分の子供に過剰に期待するのは、親の性だからです。
自分の子供が、大谷翔平だったら、藤井聡太だったら、あるいはあまた居る成功者のようだったら。
そう口にする親の多いこと。
それで傷つく子も居ますが、何も考えずに発するものであり、そこを追及すると面倒になります。
親はただの戯言と言うでしょうが、実は日本ではそれが普通なんです。
と言うのも、かつての日本では子供の間引きが横行しており、それを規制しようとするも中々うまくいきません。
それが異常事態ならやむを得ないのではという考えもありますが、実際はそんな簡単な話ではありません。
飢饉や疫病で仕方が無く子供を間引く場合もありますが、例えば女子ばかり生まれると、男子が産まれるまで産まれてくる子供を間引くケースがあるからです。
問題はそれが統計に出ないと言う点で、それこそ歴史的文献から推測するしかありません。
歴史人口学がそれで、資料の宝庫と言われる江戸時代の寺に残る記録から、不自然な数字を引き出して計算すると、それが出てきます。
例えば、当時の平均寿命や幼児死亡率等を計算すると、女性は少なくとも二十歳代前半から子供を産み始めないと人口を維持出来ないことが分かりました。
そして実際、当時の女性は概ね平均で約三年に一人の子供を産んでおり、逆に言えば十年もの間子供をもうけていない場合、そこに何らかの理由を見出すことが出来ます。
女子、女子と産まれた後、十年も経ってから男子が産まれた場合、その間に間引きがあったと見ることが出来ます。
実際、戦後しばらくでも、乳児死亡率がかなり高く、出生届をすぐに出さないケースもありました。
死なないなと判断すると、出生届けを出すなんてケースもありますし、こっそり養子に出してしまうケースもあります。
しかし、多産は母体に影響を及ぼすので、避妊が推奨されましたし、場合によっては中絶もやむを得ないという考えもありました。
江戸時代でも、乳児に五年の授乳期間が推奨されたのは、多産を回避するためと言えますし、乳児死亡率を下げる効果も期待出来ます。
しかしその一方で、堕胎、間引きは各地で行われ、その結果人口構成がいびつになりました。
それを解消するのが、蟻地獄と評された江戸や大坂の都会になりますが、今も都会の出生率の低さは江戸時代と同様になります。
幕末に日本にやってきた外国人研究者も、日本には障碍者が殆ど居ないことに注目していましたが、これも間引かれた可能性を否定するものではないと考えます。
つい数年前に、障碍者を多数殺戮し、しかもそれを英雄的行為とした犯罪者が居るように、今でもこういった存在を排除したいという、いびつな優生思想が存在します。
しかも、1996年まであった優生保護法もまた、それを裏付ける証明となっています。
間引くことが出来ないのなら、不妊手術を施そうと。
そこに本人の意思が存在せず、空気に従って淡々と非人道的な手術を人道の名の下に行われました。
子供は親の所有物であり、生殺与奪の権は保護者にあると。
尊属殺人もそうで、親が子供を殺すよりも、子供が親を殺す場合の方が罪が重くなっていました。
これも刑法が改正され、今では親がとか、子供がとかの区別はなくなりましたが、実際の審理では影響は皆無ではないはずです。
だって、それが文化の力なんですから。
つまり、こういった価値観が人の無意識の領域に浸食し、どの子供を育てるか、どの子供を育てないかを決定する権利は保護者にあるとするのも、児童虐待で現れています。
再婚相手の子供を殺すケースも、こういった本能的な感覚から、殺害ではなく間引く感覚に近いのではないだろうか?
最近では、保育園とかでも虐待があり、全国調査で虐待が無いケースの方が珍しいと言われているのも、虐待が異常なのではなく、むしろ普通のことと思わないといけません。
だって、子供の貧困は子供の自己責任を通り越し、家庭の貧困は子供の責任となるのですから。
子供が大谷翔平だったら、藤井聡太だったらと願う意識の奥の奥、深層意識にそれを求める本能があるからです。
子供が優秀なら、貧困にならないはずだと。
もっとも、期待外れの子供に嘆く親に、仮に将来大谷翔平や藤井聡太になる可能性のありそうな子供を宛がっても、きっとその才能を潰すことでしょう。
だって、彼らが欲しがっているのは成果であって、そこに至るまでの苦労とか苦悩は求めていないからです。
つまり、これが子ガチャと名付けた理由になります。
親はガチャを回し続け、外れなら間引く、当たりならとりあえず育てるけど、役に立たないと判断したら、江戸や大坂に売る。
親が作った借金の返済の為に江戸や大坂の商店に奉公に出るわけですが、これは逆に言えば一種の人身売買になります。
それは今も同じでしょう。
奨学金の返済に苦しみ、その結果婚期が遅れたり、子供の数を制限したりするのも、本質は同じになります。
江戸や大坂に奉公に出た若者も、結局婚期を逃して故郷に帰る訳ですから。
そしてここでも、うまくやる者も居るには居ますが、そういった者は少数に過ぎません。
結局、親は子ガチャを回し続けました。
しかしその一方で、親ガチャは回せません。
一回こっきりのガチャであり、回し続けることは出来ません。
その意味で、やり直しがきかない親ガチャはガチャなんて呼べないので、その親を持つことは宿命になります。
親子には非対称性があり、子供は親を選べませんが、親は子供を選べるという関係性があるのです。
親たちが実は子ガチャを回していたことを知ってもなお、親ガチャなんて怪しからんと言えるのだろうか?
きっと、親ガチャもそれに対応した表現と思いますが、子供や若者も薄々分かっているからこの表現が出てきたのでしょう。
そして親ガチャを批判する大人達も、子供に人権を認めていない、あるいは親の所有物であるとみなしている証拠になります。
まあ、中にはただメンタルが繊細なだけの善意の塊のような人も居ますが、それはそれで問題でしょう。
だって、そういった人たちが長い間放置してきたことが、この一連の問題を今に残しているんですから。
とは言うものの、それを個人のせいには出来ません。
だって、社会の構造そのものが、子供の人権を認めていないのですから。
子どもの人権に関する法律があり、啓発活動もしているのに何でこうなるのか?
法律よりも上位にある概念が、それを許さないからです。
子ども庁を子ども家庭庁としたように、選択的夫婦別姓を認めないように。
無意識にそれらを忌避する、支配から逃れようとする行為を許さない。
あるいは、弱い立場の者を支配したいという欲求から逃れることが出来ない、そんな大人たちが見る幻に付き合っているだけなのかもしれません。
そしてまた、日本のどこかで子供が殺されるでしょう。




