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前編 親ガチャとは何か?

 親ガチャとは何か?


 子供が成長して、そこに格差が生じた場合、それを親のせいにすることで自身を納得させる考えと、ここではそう定義します。


 自分が成功しないのは、あるいは苦労するのは、外れを引いたからだと。


 だから、親ガチャなんだと。


 このような意見に対して、親ガチャなんて怪しからん。

 親子は宿命であり、そんな簡単は話ではない。

 そもそも、自分の努力の無さを棚に上げて、すべてを親のせいにする根性が許せない。


 そういった批判を聞くと、どうも違和感を感じてなりません。

 

 親ガチャを初めて耳にした時、違和感よりも、なるほど、言い得て妙だと感じました。


 なんとなく、不思議な説得力があると感じました。


 実際、この言葉が飛び交うよりもさかのぼる事約20年近く前から、急に子供の貧困問題が取りざたされ、旧民主党政権の政策であった子供手当てが拡充されたのも、その貧困や格差がシャレにならなかったからでしょう。


 見て見ぬ振りが、出来なくなった訳です。


 例えば年金に加入しなくても、健康保険には加入するものと言われていましたが、貧困家庭では健康保険料も払えなくなり、無保険状態に陥った家庭の児童もまた、無保険扱いになっていたことがありました。


 つまり、子供が医療にアクセス出来るか否かは、その親次第であり、結果として生んだ親を選ばなかった、あるいは選べなかった子供に責任があると。


 子供の貧困は、子供の自己責任であるといった状態が出現しました。

 

 今は貧困率も健康保険問題もいくらか改善はされましたが、この状態は今でも続き、社会問題となっています。

 ヤングケアラー問題がそれで、これもつい数年前にある自治体が問題定義しました。

 それまでは、むしろヤングケアラーの状態にある児童を、大人たちは褒めていたぐらいです。


 偉いねと。


 そして調べると、ヤングケアラーは想像以上に深刻な状態であり、本来児童が得られるべき経験を積むことが出来ない状態の児童も居ました。

 特に児童が家を空けることが困難を通り越し、それ自体を規制します。

 児童としての時間を過ごすことを、無責任といった酷い評価をするぐらいにです。

 友達の家に遊びに行くなんて、ありえない事であるとなります。

 家族の世話の為、修学旅行に行くことを断念した児童も居たといった話を聞くと、子供の貧困は子供の自己責任を通り越して、家庭の貧困は子供の責任となっていたからです。


 つまり、家族は連帯責任であると。


 現在は断続的に調査し、ヤングケアラーに対して声を上げるように呼び掛けているので、いくらかは改善しましたが、子供食堂が取りざたされるようになったように、問題が表に出にくいのが現実です。


 実際、声を上げることをためらうような空気があり、それこそ家族の者が同じ家族の世話をするのは当たり前であるといった風潮も、否定出来ないからです。


 その結果、小学生が家族の世話の為に自分の時間を消費し、本来ならそこで得られるべき経験はもちろん、そもそも宿題すらもおろそかになってしまいます。

 家族のケアに時間が取られてしまい、勉強がおろそかになると共に成績が落ちてしまう原因を、本人の頑張りが足りないとするのは、最低を通り越して残酷なのではないだろうか?


 一般的に言う、親孝行をすればするほど、劣等生なる評価を下される社会は、果たして真っ当なのだろうか?


 義務教育の観点からしたら、子供が家族の世話をすることで学習レベルが落ちたとしても、それは結果としてその家族の責任であり、その後がどうなろうとも、時間がくれば自動的に義務教育は終了します。


 しかし、それを以って義務教育としていいのだろうか?


 こうして基礎学力の無い児童を、無理やり高等教育に進めるか、低賃金の職業に就かせるか、あるいは絶望させるかしかありません。


 これを義務教育とするなら、義務教育を満喫出来る家庭とは恵まれている証拠になり、それこそ親ガチャの結果であり、そうならないのは外れくじを引いた子供の責任となります。


 子供は嗜好品なる言葉も、つい最近耳にしました。


 その観点から見ても、子供に選択肢はありません。


 残酷なまでに、運以外の何物でもありません。


 その意味で、親ガチャなんでしょう。


 もちろん、学校も自治体もそれなりに頑張ってはいるものの、ヤングケアラーや子供の貧困なんて、何もつい最近になって表れた事象ではないはずです。


 つまり、大人たちが今まで目をつぶってきた問題であり、それこそ無かったことにしたかった問題でしょう。


 それこそ、子供の貧困は子供の自己責任となるのではないだろうか?


 それを親ガチャなんて怪しからん、親を何だと思っているんだと言う考えこそ、思い上がりに他なりません。


 親子関係を絶対的な価値観とするのは、儒教によって形成されましたが、今の時代そこに意識を向ける人は皆無と言ってもいいでしょう。


 そもそも、儒教では子供はフラットな存在であり、教育の質、量がその子供の未来を決定するといった考えがあります。

 学校がいかに重要かは、儒教的価値観から言ったら、当然の話になります。

 特に日本ではそれが顕著であり、児童が問題を起こすと、何故か学校の責任になりますが、それを当たり前とする風潮があります。


 学校の指導が足りないと。


 でも、それは道徳とか倫理の話で、何で学校に責任があるのだろうか?


 それこそ儒教をベースにしているからであり、しかもそれが内在化しているので、誰もそこに意識を向けません。


 教育とは、徳育であるのが当たり前となるのです。


 教育イコール徳育となっていましたが、これは江戸時代からの儒教教育の流れをそのまま組み込んだ結果でしょう。


 成人していても、問題を起こせば親に責任を求めるように、人の基本は教育であるとしているのが、その証拠でしょう。


 ただこれは、家父長制度、あるいは惣領制度がある事が前提であり、そんなものがすっかり消え失せた現代の日本では、ただのたわごとに過ぎません。


 江戸時代における学校も、いわば師弟関係を前提にしているので、現代の子供はすべて教育を受ける義務があるといった制度とは違うからです。


 子供に学ぶ意思があるかどうか、それが重要になるからですが、現代ではベルトコンベア式に子供の意思に関係なく学校に強制的に通います。


 選択した結果、子供が学校に通うのではなく、自治体から通知が来て子供をそのまま学校に通わせるからです。


 学校に通わせるか、学校に通わせないといった、親の意思やそもそも選択肢は最初から存在しません。


 だからか、親や世間は学校に対して過剰なまでの要求し、結果が出ないとモンスターペアレンツが問題を起こすようになりました。


 問題を起こす側も、その問題をぶつけられる側もなんでこうなるのか、実はよく分かっていませんでした。


 それが儒教から来ているとは、儒教どころか論語すら読んだことが無い人からしたら想像も出来ず、それは無意識のまま儒教の徒になり果てているからです。


 これが内在化の問題であり、そこに目を向けないまま他者のせいにするのは、その逆の外在化になります。


 これが文化の怖さで、教えていない、教わっていないとかは関係無く、そうなってしまい、しかもそれが常識になってしまっています。


 問題は、それが正しいかどうかになります。


 当然ですが儒教を学校はもちろん、家庭でも教えてはいないので、各人が勝手に都合よく解釈し、結果として儒教の教えにとっての異質となってしまうのは、むしろ自然でしょう。


 だって、知らないんですから。

 それが子供の貧困は子供の自己責任といった摩訶不思議な制度になっているのは、中世以来の儒教をベースにして、そこに近代的な制度をただ乗っけているからです。

 儒教を前近代的として排除しながら、実際は儒教をベースにしているんですから。

 そこに明治に流入した清教徒的な価値観も加わり、訳の分からない制度になってしまっています。

 儒教に武士道、清教徒に民主主義と、よく共存出来るモノだと感心すらします。

 だが、すでに限界が来ています。


 社会の前提が、すでに狂気じみているからと考えます。


 だって、公益通報をした者を自殺に追い込んだり、そこまでいかなくても叩いて叩いて叩きまくるなんて、どうかしている話です。


 かつて消費期限が切れた食品を販売して食中毒を起こした会社を会社員が告発したら、その内部通報者が叩かれた訳ですから、だったら不正もいいのかとなります。


 しかし、不正は悪であると言うのだから、この矛盾をどう説明するのだろうか?


 不正は悪だが、不正を告発する者も悪としたら、じゃあどうしたらいいのか?


 答えがありませんし、答えようがありません。


 だって、これが文化なんですから。


 その文化のベースとなる儒教の悪い部分が、こうして表面化したと考えれば実にすっきりします。


 事の是非はともかく、裏切者はただ悪であると。


 しかし、儒教では諫めても聞き入れないような主君は仁が無い者であり、そこから去ることを推奨していますし、場合によっては殺してもいいとしています。

 それなのに、不正をした会社の社長を内部の者が訴えたら、何で裏切者扱いされるのだろうか?


 赤穂浪士事件も同じでしょう。


 この赤穂浪士事件をドラマにする際、どうにかして吉良上野介を悪役に仕立てますが、そもそも幕府の裁定で赤穂藩お取り潰し、浅野内匠頭切腹と決定しているのに、何で赤穂浪士を絶賛するのか?

 幕府の裁定が気に入らなければ、突っ込むべきは幕府であり将軍家でしょう。

 今のネットテロに、どこか似ています。

 何故なら、赤穂浪士事件を批判したり、赤穂浪士を擁護する者を論破したら、殺すべきだと主張する者も居たからです。


 それも、当時のインテリがです。


 そもそも議論すると崩れるような、論理破綻しているからこそ、テロまがいの真似をするのでしょう。

 何で自分がそのようなことをしているのか、何でテロ行為に加担するのか?

 これは感情から来るので、裏切者と罵る者もまた、実はよく分かっていません。


 そこから見ると、ヤングケアラーは黙ってその境遇を受け入れるべきであり、子供の貧困は親や大人のせいではなく、子供の自己責任となります。

 家族の世話をするのは、家族なんだから当たり前だろうと。


 それが分かっているから、ヤングケアラー達は声を上げることが出来ず、むしろ境遇を隠そうとします。


 こうして子供は声を上げない、子供に声を上げさせない状況により、事態は手遅れになってしまいます。


 もう一度修学旅行なんて、何をいまさらでしょう。

 

 それらを踏まえると才能の問題は義務教育を施したその後であり、それがまともに受けられない児童が存在する意味で、親ガチャとは実によく出来た表現でしょう。

 親ガチャ批判をする大人たちの主張に矛盾があり、その矛盾を平気で放置することこそが、親ガチャの本質なんでしょう。


 子供にいかにカネを掛けたか?


 それがその子のベースになり、後はやる気と才能次第となります。

 だが、子供にカネを掛けるどころか、結果として子供を搾取するような状態では、結果はマイナスに働くようになります。

 つまり、ベースがすでにマイナスなんです。

 これであとは本人のやる気次第とか、頑張れば何でも出来るなんて言うのは、よく言えば運がいい人達の無責任な責任論でしょう。

 かつて日本は、頑張れば戦争に勝てると言って、数十倍の敵と戦うように仕向けた時代があったように、本質は変わらないのでしょうか。

 火力こそすべてが、当時の戦争の実態であり、そこに戦術もクソもありえませんでした。

 つまり、戦争における火力と同様に、どれだけの資源を子供に投入出来るかで、その子の未来が決定する、あるいは多数の選択肢を与えることが出来るかになります。

 貧困状態にあると、未来への選択肢は自ずと限られてしまい、下手をしたら裏バイトのような反社会的な仕事に手を染めるようになります。

 厄介なのはそれでもごく少数の者が、こんな状態からうまく脱しているので、ほらやっぱり努力が足りないからだとなり、こうして児童を追い詰めていきます。

 成功するかどうかは、家庭環境に関係なく、本人の努力次第であると。

 だが、成功者の中には、自分が成功したのは才能とか努力ではなく、ただ運が良かっただけであると述べている者も居るように、歴史に残る天才がその天才性を社会に発揮する環境に恵まれなかったがゆえに、その才能を開花することなく生涯を終えた者も居ます。

 死後、その人が実は天才であったと分かるような、不幸な天才も結構居ます。

 

 結局、人一人の力などたかが知れており、成功に至るまでに、周りがどこまでの力を貸せるか、背中を押せるかに掛かっていると思います。


 最初から、自分のスキルアップの時間や資源を使って、家庭の世話をする者に、どうやって期待できるのでしょうか?


 努力が足りないとか、あるいはそれを言い訳とか。


 いずれにせよ、人のリソースには限りがあり、それを本来使うべき時や場所ではなく、自分を庇護してくれるはずの家庭に割かないといけないのだから、これを自己責任とか努力が足りないと言うのは、話しが違うと思います。


 その意味で、親ガチャなる表現は、批判に当たらないと思います。


 



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