◆九月十ニ日 午前七時五十四分――通学路
さて、僕たちは今、母校である室月中学校へと向かっている。
学校までの道のりは大体ニ.五キロメートルといったところだろうか。
徒歩で通学するには少々長い距離だが、うちの中学校は自転車の駐輪場があまり広い方ではない。
そのため自転車通学は学校から三キロ以上離れた生徒にしか許されていないのだ。
四捨五入すれば三キロとなるのだし、そのくらいおまけしてくれてもいいじゃないかとも、当初は思ったものだが、たかが五百メートル、されど五百メートル。
学校側は、やはり僕たちに自転車通学を許可してくれることは無かった。
故に、僕とお隣さんの一葉ちゃんにとっては、少々長い距離ではあるが、この通学という名のウォーキングが日課となっていた。
幸い、僕が毎朝一葉ちゃんを起こしているため、僕も彼女も普通に登校して遅刻することは少ないのだけれど……
今日という日、僕の隣を歩く幼馴染は、それに感謝することも無く、それどころか僕に向かって睨みを利かせてきていた。
勿論僕は一葉ちゃんのその視線にも気が付いているし、それを向けてくる理由も理解している。
「~~♪~~~~~♪」
だが、僕はそれをあえて無視し鼻歌を口ずさみながら、通学路をひた歩いていた。
鼻歌を歌うことに特に深い意味はない、ただあえて理由を述べるとするならば今日という日の空模様がいいからだろうか。
それに、こうして他の何かに幾割りでも意識を割けば、歩行で生じる膝、間接の成長痛もいくらかはまぎれるというものだ。
決して、隣から向けられるどぎつい視線を誤魔化そうとしているわけではない――
――念のためもう一度いうけど、本当にそんなんじゃないからね?
「――――ねえ全、あなた私に何か言うことがあるんじゃないの?」
「?」
「っ!! ニッコリ微笑みながら首を傾げるな!! そ、そんなんじゃ私は易々と懐柔されないわよ!?」
怪獣? なんのことやら?
僕はなにやら顔を赤くしている一葉ちゃんに、とりあえず向き直る。
背は彼女の方が頭一つ分ほど高いため、悲しいことながら彼女の顔を若干見上げる形となった。
不機嫌に歪む端麗な容姿、どうやら今日は易々とひいてはくれないらしい。
僕はそんな幼馴染の様子に内心でこっそりため息を付く。
「いやいや一葉さん、僕は今日もちゃんと自分の務めを果たしたと思っているのですがね、その証拠に時間にも余裕あり、多分だけどいつもと同じくらいだと思うよ?」
「……それについては感謝してあげるわよ、けどね、今私が不満を持ってるのはそれじゃない――――全、私はいつも口をすっぱくして言っているでしょう?」
彼女の顔には笑みが浮かんでいた。
だが、なぜだろう、僕はその笑顔を向けられたその瞬間、なにやら言いようのない不快感が僕の背中を駆け巡り、体を一瞬硬直させてしまった。
そして、その一瞬はまさに命取り、なんの淀みもなく伸びてくる一葉ちゃんの手のひらは、容赦なく僕の両の頬をムギュリと引っつかむ。
「私を起こすのにデコピンを使うなーー!!」
「っ!? いひゃい、いひゃい!」
縦に二回、横に二回、大きく丸を描れたと思ったら再び真横へと強引な引き伸ばし、一葉ちゃんはなんともいえぬ笑顔で僕の頬をこねくり回していた。
僕は当然一葉ちゃんの行動の静止を呼びかけるべく一生懸命声を出そうとするものの、両頬を摘まれているせいもあってうまい具合に発音ができない。
声が出ないのであるならば行動で示すのみ、と、彼女の両手をタップしてみても彼女の憂さ晴らしがとまることはなかった。
一葉ちゃんをとめることが出来ない、僕は瞬時にそれを悟る。
だが、だからといって見知らぬ道行く人たちに助けを求めることも無理だろう。
だって……道行く人たちは、僕たちのそんな光景を目にして、なんか凄く微笑ましいものをみる様な、そんな視線を送ってきているんだもの……
僕らの行動は、彼らとってすれば仲のよい姉弟のじゃれ合いとか、そんな感じの営みにしか見えないのだろう。
なんというか、いろんな意味で泣きたくなってくる……既に頬を摘まれる痛みのせいで、ちょっとだけ涙目になりかけているけど……
「おいおい、朝っぱらから見せ付けてくれるね~、な~にいちゃついてんだよ」
そんなときだった。その声が聞こえてきたのは――
かけられた声にはどことなく既視感を感じる。
今朝方父さんに同じようなことを言われたのが原因だろう。
その声に反応して、なぜか笑顔を通り越して悦に入っていた一葉ちゃんが、ようやく現実に戻ってきてくれたのか僕の頬を離してくれた。
投げかけられたのはまさしく”天の助け”、ついでに言うならその声は知人のもの。
やけに馴れ馴れしく、内容も方も言及したいものであったが、とりあえず安堵する僕。
そして僕たちは、その声の主を捕捉するために辺りを見回した。
前――――居ない。
後――――居ない、見知らぬ人と目が合ったのでとりあえず軽く会釈をしておく。
右――――ブロック塀。
左――――道路を挟んで住宅街が見える、が、声の主の姿は無し。
はて? 四方を確認してみたが、先ほどの”天の助け”を発してくれた人物は見当たらならい。
僕と一葉ちゃんは顔を見合わせて首をかしげた。
「――――お前ら……なんだその可愛い反応は、特に全、俺は親友として嘆かわしいぞ? とりあえずこっちだこっち!!」
再び同じ人物からの声が聞こえてきた。
今度のは場所の特定が出来るように先ほどよりも若干大きめな声。
……なるほど、見渡してみても見つからない理由がわかった。
先ほどの声はまさしく”天”の助けであったようである。
なぜそんな方から声が聞こえるのか――――聞こえてきた声の主の性格を考えると、なんとなく脱力しそうな理由が帰ってきそうだが、とりあえず、その姿を確認するために顔を動かした。
そう、”上に”――――
「やっと気がついたか、まったくお前も親友なら直ぐに気づけよな」
……なんというか、声はかけられたが返事をしたくない、出来れば他人の振りを決め込みたかった。
その人物は、何を考えているのか道路に並んで点在する並木の内の一本の割と上の方にしがみ付いていたのだから。
だが、しがみ付いている当の本人は、僕の、いや僕たちのその思考を知ってかしか知らずか、二カッと満面の笑みを浮かべるとそのまま僕たちの目の前に飛び降りてきた。
スタッと、なんとも軽い足取りで着地するそいつ、並木と地面の高低差は結構な高さがあったのに随分と軽やかな着地であった。
そんな彼はなにやら得意げに胸を張りながら、「どうよ!」とでも良いたげな表情で僕たちに視線を送ってくる。
恐らく着地に関しての自慢、つまり自分の身体能力を自慢したいのだろう。
僕は大きく一度ため息を吐いて、とりあえず評価してあげることにした。
「……9点だね」
「なに!? どこが悪かったんだ! 完璧な着地だっただろ!」
「しいて言えば最初がね、樹木に必死になって張り付いてる図柄はとてもシュールだったよ」
「がふっ! ……盲点だった……」
「……なにアホみたいな会話してんのよ、あんたたち」
僕の辛口な評価に一葉ちゃんの一言、彼はその大きな体格をわかり易く竦め、凹んでいる。
「おはよ修司君、相変わらず君はでっかいね」
「おう、そういう全は何時になくちっこいのな」
僕はいつもの様に、やけに馴れ馴れしい大柄の同級生と軽口を交わす。
ちなみに、彼は同級生でクラスメイト、幼稚園からの腐れ縁で僕とは一応親友と言う関係である瀬月 修司君だ。
背が大きく体力馬鹿でバスケ部の主将、大雑把で騒がしい男で、僕とは殆ど正反対の性格をしているが、なぜか気が合うためいつもつるんでいる。
そのため学校では「凹凸コンビ」なる不名誉な称号をいただいてしまっていたり、いなかったり。
言わなくても分かると思うけど、僕が凹の方だ。修司君の身長は183cmだし……
「……それで修司、あんたどうしたの?」
「ん?」
「いや『ん?』っていわれても、むしろそれは私たちのほうが『ん?』なんだけど。わざわざあんな所にいたんだから何かあるんでしょう?」
「ああ、そりゃな」
一葉ちゃんがもっともな質問をする。かくいうところ僕もそれは気になっていたため、コクコクとうなずいて見せた。
そんな僕らの姿を見てか、修司君は徐に自分の鞄を僕たちに差し出してきた。
鞄はやけに歪に膨らんでいる。
はて、授業の教材を入れたところでこのような膨らみ方はしないはずである。
というかそもそも、今日は白聖祭の前々日ということも有り、今日一日はそっくりそのままその準備に割り当てられている日だ。
通常授業がないため、教材を持ってくる必要性すらないはずである。
まあ彼の場合、通常めんどくさいからという理由で、全ての教科書類を学校におきっぱなしにしてあるという、ある意味”剛”な人物であるため、鞄の膨らみに対する疑問はなおさらであった。
……修司君、毎日の宿題とかどうしてるんだろ?
ふとそんな疑問が浮かんできたが、とりあえずはおいておく事にする。
僕は差し出された鞄を受け取り、徐にその開口部を開いて見せた。
と――
「にゃ~」
「わっ!?」
開くと同時に真っ黒な物体が飛び出てきた。
僕はその唐突さに驚き、思わず修司君の鞄と一緒に”それ”を地面へと落としてしまう。
だが、だからといって何も問題はないらしい、黒い物体は落下していくその最中、空中でくるりと一回転すると静かに大地へと降り立った。
「……えっと、猫?」
「ああ、見てのとおりだ」
「どうしたのよこの子」
「だからこれが俺が木に登った唯一にして最大の理由だ」
修司君は、僕が落としてしまった鞄を拾いながら何でもないように言ってきた。
よくよく見れば、空中で見事な受身を取ったのは瞳以外全身真っ黒な毛並みで覆われ、鍵尻尾の特徴的な子猫であった。
なるほど、大方高いところに登ったはいいが降りられなくなり、途方にくれ鳴いていたところを修司君に発見された、と、そんな筋書きなのだろう。
「へえ珍しい、あんたが進んで善行をするなんてどういう風の吹き回し?」
「別に、ただ猫を助ける俺の姿に胸キュンする女子が居るかもなんて思って――ってどうしたんだよ? いきなり頭抱えて」
それは包み隠す気のない本音100%の言葉。
良くも悪くも嘘がつけない、修司君はそういう人だった。
「――少しでもあんたを見直した私が馬鹿だったわ、ほら全、さっさと行きましょ、時間の浪費だわ」
そんな修司君の言葉に呆れたのか、学校へと続く通学路を再び歩き出す一葉ちゃん。
僕はそんな二人のやり取りを眺めながら、とりあえず彼女の後姿を追うことにした。
「お、おい! ちょっとまってくれよ二人とも!!」
後ろからはなんとも情けない大柄な親友の声が聞こえてくる。
その声に前を行く幼馴染同様呆れながら、僕は僅かに痛む関節を気にしながら今日も熱を持ち始めたアスファルトを踏みしめた。