◆九月十三日 午後九時四十一分――通学路--大切な人
「――ね、ねぇ一葉ちゃん、大丈夫?」
「はぁ、はぁ――大丈夫だって言ってんでしょ! あ、あんたは、っはぁ、黙ってなさい」
激しく息を切らしながら、それでも律儀に僕への返答を返してくれる一葉ちゃん。
大丈夫だと言い張ってはいるが、息切れの混じった疲労の色漂う声音に申し訳なく思ってしまう。
いくら完璧超人を絵に描いたような人物であったとしても、一葉ちゃんは女の子だ。
そんな彼女に、いくら一般的な中学生男子よりも小さいとはいえ、人一人を抱えさせるなんて間違ってもさせてはいけないというのに――
僕こと”霧生 全”は、現在進行形で一葉ちゃんに背負われています……
なぜこうなったのか――
極論からいえば、僕が身体を満足に動かせないから――それが理由。
城嶋さんに一撃を叩き込んだその後、僕は意識だけは失わなかったものの、彼と同じく倒れこんだ。
倒れたのは魔法の過剰使用が原因だったのだろう。
僕の体に残ったほぼ全ての魔力と衝撃を込めた一撃、城嶋さんに放ったのは正しく僕の”渾身”の一撃だった。
使い切った衝撃の方はまだ貯め直せば問題はないのだけれども、魔力の生成には精神力と体力、その両方を使用する。
つまり魔力を使いきったという事は、今の僕は心身ともに疲労困憊の状態なわけである。
しかも僕の場合はそこに加えての”痛覚遮断”の使用も加わる。
唯でさえ身体に負担のかかる魔法を使い、さらには”痛覚遮断”による身体の過剰酷使。
僕はお医者さんではないからハッキリした事は分からないけれど、酷使した手前、痛覚を繋げる事は怖くて今現在も出来てはいなかった。
痛覚を繋げた瞬間どれほどのフィードバックに襲われるのか……ハッキリ言って想像したくない現実だった。
「一葉ちゃん、やっぱり悪いよこんなの―― 一さんも一葉ちゃんの事を凄く心配してたんだ。だから一葉ちゃんは少しでも早く家に帰って一さんを安心させてあげてよ。僕は大丈夫だから、その辺――公園とかに置いておけばいいからさ、多分もうすぐ動けるくらいにはなる――」
「――ぅるさい! 何度も言わせないでよ!! あんた程度を背負って帰るなんて楽勝よ、楽勝! あんたは黙って私に背負われてればいいの!!」
一葉ちゃんは僕の言い分を半ばでバッサリ切り捨てると、気合を入れ直すように僕を背負い直した。
このやり取りも何度目だろうか?
教室で僕たち三人揃いも揃って倒れ伏している状態から、唯一一葉ちゃんだけが復活を果たし、其処から今に至るまで同じようなやり取りを何度も繰り返した。
その回数は恐らくは両手の指の数すらも溢れてしまうだろう。
このやり取りをするたびに、僕の中に存在するささやかな”男のプライド”が傷ついているのは此処だけの秘密だ。
……――ホントに女の子に背負われる僕って何なんだろう?
考えてまたテンションが下がってゆく――鬱だ。
それにこの状況、一葉ちゃんには明らかに”迷惑”を掛けてしまっている。
背負わせているという状況もさることながら、同時に意識が行くのは僕の両方の掌だ。
今現在裂傷を作った僕の掌にはハンカチとタオルが巻かれていた。
ハンカチは常備しているものでタオルは今日のクラスマッチの為に持って来たものであるらしい。
……両方とも一葉ちゃんの私物だ。
宛がわなくてもいいとは言ったんだけど、一葉ちゃんは、そう言う僕を睨みつけながら無言でそれらを僕の掌に巻きつけてきた。
布地に着いた血の染みは存外落ちにくい、これでこのハンカチとタオルはもう使い物にならないだろう。
――否、それだけじゃない。
「……ねぇ一葉ちゃん、君の制服汚しちゃって、ごめんね」
僕が口にしたのは血で一葉ちゃんの制服を汚してしまうかもしれないことへの謝罪。
一葉ちゃんに”迷惑をかけてしまう事”への謝罪を無意識に織り交ぜて……
「――ッ!?」
瞬間、近くで聞こえていた荒い息が一瞬だけその鳴りを潜め、その代わりに息を呑む音が聞こえてきた気がした。
……気がしたと言うのも、ハッキリ言って本当にそうであったのか僕には判断が出来なかった。
何分、聞こえたかもしれないその音は一瞬の事であったし、一葉ちゃんの歩みの様子にも何の変化も見られない。
おや? と思った次の瞬間には息切れは再開されていて、僕が謝罪の言葉を吐きだした直前と何も変わらなかったからだ。
でも、どうやらそれは聞き間違いではなかったらしい。
状況の変化は数秒と立たず現れたのだから。
まず現れた変化は微細な振動だった。
えっちらおっちらと揺れ動く、その小さな背中から伝わるは確かな変化。
「……っく! ……ひっく! ……ぐすっ!」
そして、聞こえてきたのは鼻を鳴らす音。
一葉ちゃんの首に回した僕の手に、彼女の頬を伝ったであろう雫が落ちてきた。
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思わず息がとまった。それは全らしい言葉であると同時に信じられないものだった。
「……ねぇ一葉ちゃん、君の制服を汚しちゃって、ごめんね」
こいつは、全は、私の為に学校に来てくれた。
私の事を心配して、私の事を連れ戻しに来てくれた。
……そして、自分の力で立ち上がれないほどボロボロになった。
コイツをこんなにしてしまったのは私なのに――
私がもっとうまく立ち回っていたら、全はこんなに痛い思いをしなくても済んだのに――
ここまで自分を追い詰めることはなかったはずなのに――
それなのに、そんな全が吐き出した言葉は、まさかの謝罪。
でも、そんな謝罪の言葉を聞いて私はこいつが口にした一言を思い出した。思い出してしまった。
否、その一言は未だに私の頭の片隅にしっか残っていた一言だった。もしかしたら私自身深く考える事を無意識のうちに放棄していたのかもしれない。
だけど、もう、考えずにいる事は出来なかった。
『――僕は、僕自身の所業のせいで誰かに”迷惑”がかかるのが、たまらなく嫌だった――』
さっき、あの非常識の中、全は、一番になる事を強制させられ、苦しんでいた城嶋君に対してこう言った。
……衝撃だった。
全は人からの頼みごとのその殆を、ほぼ無条件で引き受けちゃう。
でもそれはこいつが馬鹿みたいにお人よしだから――困っている人が見過ごせないからなんだと思っていた。
――本質的な人柄はきっとその通り。
それでもまさか全が、そんな強迫観念じみたものに囚われているなんて、夢にも思っていなかった。
でもそれを踏まえて考えれば、今まで私が腹立たしく思っていた、全の行動の理由が全部理解できてしまう。
――人からの頼みごとを断れない。
――夏休みに、全は一人で勉強をしていた。
――全は、どんなに大変な問題でも一人で解決しようとする。
恐らく、今日の朝から全の様子が変だったのも、何かしらの問題を自分一人で抱え込もうとしていたから――
一人で何でもこなす――それはとても凄い事だと思うけど、同時にとっても悲しい考え方。
全は私に迷惑を掛けたくないから、だから頼ってこない……
今のこいつの謝罪だってそうだ。
恐らく全は自分の血で私の制服を汚す事を、私に対する迷惑だと考えてあんな事を言ってきたのだろう。
でもそれは間違い。
私が下手を踏まなければ全は血に塗れなくて済んだはずだった。
私が携帯電話の充電を怠っていなかったら、私が全を背負う必要はなく、こいつがこんな懸念を抱く事はなかったはずだった。
私が全の言い分を撥ね退けて無理にコイツを背負わなかったら、こいつに”迷惑を掛けさせてる”なんてことは思わせなかった。
――私が、――私が、――私が、――私が、――私がっ!!
考えたら、無性に腹が立ってきた。そして同時に悲しかった。
……――全は何時だって私を救ってくれるのに、私は全を助けてあげられないの?
無力な自分が嫌になる。
そんなふうに考えたら、もう駄目だった。
「……っく! ……ひっく! ……ぐすっ!」
目頭が熱くなる、堪えられない……なんて情けない……
「か、一葉ちゃん!?」
後ろから全の戸惑う声が聞こえてきた。コイツが戸惑うのも当然だろう。いきなり泣き出したのだから。
でも、もう無理だ。
「はぁ、……っぐ! だ、だからっ、ひく! あんたはいいから黙ってろっていってんの!!」
思わず怒鳴る。背中で全が身を竦めたのが分かった。
驚かせてしまった。でももう止まらない――止まれない――止められない!!
「ぐすっ! 大体ねえ、あんたは私を何だと思ってんのよ!! 私はあんたが助けに来てくれて嬉しかった!! でも、あんたにそんなふうに謝られたら、私は一体何に感謝すればいいのよ!! なんであんたはそうなのよ、私が迷惑してるなんて勝手に決めつけないでよ!! あんたが一人で完結させてばっかりだから、私は――っ!!」
口から次から次へと勝手に言葉が飛び出てくる。
まるで私の口じゃないみたい。
「何勝手に分かった気になってんのよ、私の気も知らないで、こんなにボロボロになって……私は迷惑なんて思ってないよ、だからもっと頼ってきてよ、他人の為に命掛けたりしないでよ。見て分かる通り私にだってあんた一人背負うくらい出来るんだから! 一緒にやれば命かけたりしないで済むかもしれないじゃない、もしまたあんたが一人で突っ走ってもしもの事があったら、私はあんたを許さないからね!!」
涙が止まらない。
視界はゆらゆらと歪んでハッキリとしない。
「……本当に一人で無茶しないでよ」
でもこれだけは言っておかないと。
あんたにもしも万が一に、いや、億に一の確率でも何かしらの災いが降りかかったとしたら。
もし、全がイナクナッテ、私が一人になってしまったとしたら。
――絶対に、私は耐えられない。
「……一人は怖くて嫌だから、一人になるのは嫌だから……私にはあなたが必要です」
勝手に動く口だけど、其処から出たのは紛れもなく私の本心だった。
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嗚咽と息切れで呼吸困難にも似た状態の一葉ちゃん。
それはきっと苦しいはずなのに……それでも一葉ちゃんは歩みを止めることなく――
「……一人は怖くて嫌だから、一人になるのは嫌だから……私にはあなたが必要です」
――それどころか背中に背負う僕を支える両方の手に、今まで以上の力を込めてきた。
……何も言えなかった。先ほどまでと打って変わって、一葉ちゃんの声はどこまでも弱弱しい。
これ程までにしおらしい一葉ちゃんの声など久しく聞いた事がなかったからだ。
でも、どうしてだろう、弱弱しい声だというのに、一葉ちゃんの声はやけに力強く僕の中に入ってきた気がした。
きっとそれは、一葉ちゃんにとって重要な事だったからなのだろう。
頼ってもいいのだろうか?
迷惑にならないだろうか?
僕はいつもそんな事を考えていたけれど、そう言えば何故そんな事を考えるようになったのだろう?
……いや、何故かはきっと分かっている。
母さんが声を殺して泣いていた時――教室で陰口をたたかれていた時――
周りに頼り過ぎることで、迷惑をかけ過ぎることで、『霧生 全』という人間が使えない人間なのだと思われるのが怖かった。
僕と言う人間が”無価値”な物のように思えて怖かった。
それは先ほど教室で狂気に囚われてしまった城嶋さんと同じ想い。
自分のやってき事が無意味なのではないのかと思ってしまう、そんな錯覚。
今まで必死に道を歩んできて、ふと立ち止まって周りを見渡してみた時、その景色が元いた場所と殆ど変らないと気がついてしまった様な――それどころか後戻りしているようにさえ見えてしまった様な、そんな感覚に囚われてしまったんだ。
でも、それはきっと間違なんだ。
何とだなくだけど、解る……
僕たちの人生の形は――おそらくは”螺旋”
グルグル回りながら上へと向かってゆく。
回っているからこそ景色が変わらず見えたり、後戻りしている様に見えてしまうのかもしれないけれど、それでも少しずつ進歩し続ける。
沢山歩いて、それなのにちょっとしか登れていなかったって、心配する事じゃない。
それはそれだけ、螺旋の密度を高くしている――回れば回るだけ確かな足場と成ってゆく。
――そうやって僕らは捩じれる未来を歩んで行くんだ。
だから、怖がる事はきっと何もない。
僕自身、急に在り方を変えることは出来ないかもしれない。
きっと僕は今後も誰かの役に立ちたくて頑張って、でも結局誰かに迷惑をかけてしまう事があるだろう。
だけど、僕は大丈夫だ。
それはこの人が僕を必要だと言ってくれたから、きっと僕の事を見ていてくれるから。
現実は、辛くて、悲しくて、怖くて、寂しいことが一杯だけど。
それでも、時間を共有し、共に喜びあってくれる人たちがいるから。
だからこそ、頑張れる。
今までの日々も、君との思い出も、何一つかけることなく君は持っていてくれるだろう。
だからこそ、もし駄目だったとしても、今までの十五年という年月は、いや、これからの五年間だって意味のある生活にすることができる筈だから。
それに、もし間に合わなかったとしても、僕は――
――こうして僕の為に涙を流してくれる君になら――
―― 一葉ちゃんになら……
……――っと、いけないいけない、そう言えば簡単に命を投げ出すなと、今、この人に言われたばかりだったっけ。
僕は心の中にひっそりと思い浮かんだ一つの真実を、心の内で小さく否定した。
―― 一葉ちゃんは僕を背負ったまま、通学路最後の曲がり角を曲がった。
道の先に見える僕らの家。
その前で、大人の人が二人慌てた様子で何かを言い合っていた。
父さんと一さんだ。
でも、そんな二人は直ぐに僕たちに気がついたようで、僕たちに向かって安堵の表情を浮かべながらに駆け寄ってきた。
「一葉!!」
「全!!」
口にするのは僕たちの名前。
呼ばれた名前に反応するように一葉ちゃんが更に歩く。
――僕たちの姿が街灯に晒された。
「「っ!?」」
瞬間、二人の表情が固まり、そして豹変。それに伴って駆け寄る早さが少しだけ早くなった。
「っか、一葉!? 一体何があった! どうしてこんなに遅く――いや、全君はどうしたんだ!? ボロボロじゃないか!」
一さんの捲くし立てる様な言葉。でも、無理はない。事実僕はボロボロなのだから。
「――はぁ、はぁ、えっとね、はぁ、これにはあの、色々と訳があって……その……」
一葉ちゃんが必死に言い繕おうとしているが、どもってしまう。
流石に、”学校で学友と戦闘行為をしてこうなりました”なんて、言えはしない。
さすがにここは嘘をつくしかないだろう。
「―― 一葉ちゃんは学校で居眠りをしちゃって遅くなったみたいです。あと僕のこれは野良犬と喧嘩した後に階段から転げ落ちただけだから、あんまり気にしないでください」
一葉ちゃんの声を遮る様に、僕が少しだけ大きな声を出した。
「……いやいや全君、その言い訳もどうなんだろう、それにその言い分を信じるとしても、君に関しては結構大ごとなんじゃないのかい?」
僕の言い訳に一さんは呆れたように言う。
正論なだけに、僕は苦笑いするしかなかった。
――と、僕たちのそんなやり取りを静観していた父さんが、ここでようやく口を開いてきた。
「――全、”お前たち”に大事は無いか?」
父さんは僕の方を真っすぐ見返しながら、ただそれだけを僕に訪ねてきた。
そう言えば昨日の朝も、同じような事を父さんに聞かれた気がする。
あの時は少しだけ戸惑ってしまった質問だけど。今の僕はあの時とは違う。
――今なら胸を張って言える。
「うん――”僕たち”は大丈夫」
僕は父さんから目を離すことなく、その一言を言いきった。
父さんは一瞬だけ驚いたように少しだけ目を大きく見開く。
「……そうか」
そして少しだけ笑みを浮かべながら、一言優しく言葉を発した。
その様子に何故か僕も嬉しくなって微笑み返す。
「一葉ちゃん、息子を運んできてくれてありがとう。さあ、全、俺の背中に乗れ、もう遅いんだ。家に入ろう」
父さんが一葉ちゃんにお礼を言って、彼女から僕を受け取った。
小さい背中から、大きな背中へ移動する僕。
大きな背中の主は、苦も無く、力強く僕を背負いあげてくれた。
そんな優しくて力強い背の中で、僕は一度一葉ちゃんの方へと顔を向ける。
どうやら僕の体は幾許か回復に兆しを見せているようだ。安心した。
うん、大丈夫。
見れば、一葉ちゃんも僕の方を見ていた。
――きっと僕たちは同じ事を口にするだろう。
「「また明日」」
――ほらね?
”また明日”いい言葉だ。
別れのあいさつなのに別れって感じがしないところが特に良い。
それじゃあ、また明日も、僕の大切な人をいつもと変わらず起こしに行こう。
当たり前だった事が、これからも当たり前に出来る。
それはこんなにも嬉しい事だったなんて知らなかった。
「……ねえ父さん、僕まだこれから何をすればいいのか、如何すればいいのかさえ分かっていないけど……だけど、頑張るよ。全さんみたいに頑張ってみるよ。だから、父さん――僕に力を貸して」
そうして今こう言える事が出来た自分が、少しだけ誇らしい。
「……――ああ、当たり前だ」
僕は父さんの背の中でもう一度笑みを浮かべた。