◆九月十三日 午後七時三十八分――室月中学校 普通教室棟 3-B
「それにしても随分頑張るね、水鳥さん」
「……ぅく」
床に這いつくばった状態で、それでも私はどうにか視線だけを上へと向ける。
けど、見なければ良かったと酷く後悔。視界のぎりぎりに映ったのは、私に声をかけて来たその人――城嶋君の能面のような表情だけだった。
こちらを見下ろしてくるその視線に身の毛がよだつ。
「それにしても流石は幼馴染というべきか、結構な時間になるのにまだ終わらないなんてね、本当に恐れ入るよ」
城嶋君が何かを言っているが、私はすでに反論する気力を失いかけていた。
目が覚めた時に感じた右腕の痛みも、今はもう気にする余裕もない。
――怖い
”零れ落ちてゆく”という事が、こんなにも怖いことだとは、知らなかった。
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五分間――それは私が、自分の置かれている状況を理解するのに要した時間だ。
気を失う前にあれだけのことがあったのに、この体たらく、私は自分の寝起きの悪さに酷く嫌悪感を抱き――さらに数分。
私の意識は不意に走った右腕の痛みによって、強引に現実に引き戻された。
「――痛っ!」
小さく呻き声を溢すと同時に違和感を覚える。
とっさに、右手の痛みの原因を知るために動こうとしたのに、思っただけで終わってしまったからだ。
体が動かない――
眼に映る景色は薄暗いものの教室のそれで、今の私が、教室の床にうつ伏せで倒れ込んでいる状態なのは理解できた。
何故そうなっているのかまでは、理解の及ぶところではないけれど……
とりあえず両手を使って、上体を起こそうと行動しようとした結果がこれ――
その事実に、私は大いに動揺する。
「……え? ちょ、なにこれ!?」
とりあえずもう一度、今度はなんでもいいからとりあえず動いてみようと試みた。
だけど、手、足、肩、腰、頭――どこでもいいからとにかく動いけ! と必死になって脳内から命令を送っては見たものの、その成果は微弱。
それも痙攣と勘違いするほどの微少な動きしかできず、その事実が私の動揺をさらに加速させた。
――とりあえず現状を把握しよう。
服などには特に変化はないみたい。
取りあえず女の身として、身体が無事であったことに私は密かにほっとする。
しかしながらこれはどういった状況なのか、右腕はやけに痛むけど、体が動かないから、如何して痛いのかが確認できない。
「――おっと、もう目が覚めたのか」
不意にそんな声が聞こえてきた。
聞きおぼえのある声、それは私が気を失う直前に聞いていた声だ。
薄暗い視界で、その上焦っていたから気がつかなかったけど、その声の主は案外近くにいたみたい。
顔はほとんど動かせないから視線だけをどうにか上へと向ける。その先には、片膝をつきながら床に”何か”をしている城嶋君の姿があった。
「……色々と聞きたいことがあるんだけど、とりあえず聞いていい?」
先ほどまであれ程動揺していたのに、思った以上に冷静に口を開けたことに自分でも驚きながら、私は城嶋君の返答を待つ。
よくよく見れば城嶋君の手に握られているのは一本の筆と紙コップ、筆で何かを床に描きながら、時折筆の先端を紙コップの中へと持ってゆく。
おそらく、あの紙コップの中身は絵の具か染料の類でも入れているのだろう。
「片手間ですまないが、それでもいいなら問題ない、この作業をやるのにも飽きてきたところだ」
――飽きてきたという割に、その手を止めるつもりは微塵もないみたい。
無表情で一心に何かを書き続ける城嶋君の様子に、私は言いようのない不安を感じながら、それでもどうにか口を開いた。
「さっき私の意識を奪ったのは一体何、あと身体が動かないんだけど、私に何をしたの?」
「前者は魔法だ。睡眠魔法という一般魔法があるのを知っているかな? 君に使ったのはそれだ。後者に関しては流石に薬品を使ったけどな」
身体の自由を奪う理由、それに関しては理解できないけど、とりあえず睡眠魔法は知っている。
薬局にでも行けば簡単に入手できる魔法の一つ。
元々は不眠症の人のために作られた魔法で名前の通り眠りを誘う効果がある一般魔法。
効果だけなら睡眠薬を使用しても同じだろうけど、睡眠魔法は自然な眠りを誘発させるため、睡眠薬のような副作用が存在しないという、まさに不眠症患者にうってつけの魔法だ。
だけど――――
「―― 一般魔法? 継続魔法の間違いでしょ、あの時私は頭を触られた”直後”、”強制的に”眠気に襲われたわ」
城嶋君の言っていることと、さっき起こったことじゃ明らかに矛盾がある。
睡眠魔法は、確かに眠りを意図的に誘発させることのできる魔法だけど、それはあくまで”自然な眠り”でしかない。
私の知っている睡眠魔法は、魔法をかけられた直後”ああ、眠いな……”程度の眠気が生じるものにすぎない。
つまり、我慢すれば起きていられる――その程度のものでしかなかったはずだ。
まあ市販されている一般魔法は大概効果に規制がかけられていて、ほとんどがその程度の物になっている。
普通に考えて強力な魔法がそう易々と手に入ったら、警察という名の行政機関はたまったものではないだろう。
そしてそれは、問答無用で”意識を刈り取る”ことのできる城嶋君の睡眠魔法には、当然のごとく該当しない。
だからこそ城嶋君の睡眠魔法は、継続魔法なのではないのかと私は思ったのだ。
「半分正解かな、でもあの時使ったのは確かに一般の睡眠魔法さ、正確には”一般魔法でもある”と言うのが正しいのかもしれないけどね」
しかしながら、城嶋君から帰ってきた返答は随分と曖昧な言い回しだった。
”一般魔法でもある”、その言い回しに妙に引っ掛かりを覚えた私だったが――続いた城嶋君の言葉によって強制的に思考を中断させられた。
「あ、そうそう、継続魔法とえいば――水鳥さんが継続魔法持ちだとは意外だったよ」
「っ!!? どうしてそれを!?」
「なに、あの時君から魔力反応があったから無効化させてもらったんだが、その時に見えた魔法術式が随分と珍しかったからね、そうじゃないかと思ったんだが――やっぱりか」
作業を続けながら何でもないように――いや、作業を続けながらだからこそ何でもないように聞こえたのか。
とにかく特に変わった様子もなく言われた言葉に、私は思わず息を飲んだ。
無効化? 魔法術式? 一体城嶋君は何を言っているのか。
城嶋君があの時”何か”をしたことは確かのようだけど、何をしたのかが全く理解できない。
得体の知れない何かを持つ城嶋君という人間に、この時私は明確に恐怖を覚えた。
「――っ、じゃあ二つ目! さっきから右手が痛いんだけど、一体何をしたの?」
私はその恐怖を振り払うように次なる質問を城嶋君へと問うてみた。
「それに関しては悪い、この魔法を完成させるためにどうしても君の血液が必要だったんだ、それでちょっと、な」
「乙女の軟肌に傷をつけるなんてサイテーね」
「――返す言葉もないよ、それに俺がしようとしている行為は、正しく人間として最低の行為に分類されるだろうな」
城嶋君は何か思うことがあるのか、一時的に作業を止め天井を見るように上を向いた。
私に対して背を向けている状態なので、今の私に彼の表情を見て取ることはできないけれど、その仕草から、そして自分自身の行為を最低だと認めたことから、なんとなく彼は自責の念を抱いているような気がした。
しかしながら、彼はその状態を維持した時間は約五秒間――彼は作業を再開する。
「だけど俺にはもうこの方法しか思い浮かばないんだ。一番最初から俺の持っていた方法で、一番使いたくなかったこの方法しか……」
城嶋君は吐き捨てるようにそんなことを小さくこぼした。
「……最後の質問よ。一体あなたは、今、何をしようとしているの?」
私は意を決して、一番疑問に感じていて、それ故に一番最後に回した質問を城嶋君へと問う。
「――なぁ、水鳥さん、君は霧生のことが好きだろう?」
質問を質問で返された。随分と突飛な質問。
それは昨日私が城嶋君に言ったことの大本となる事実。
なぜ今それを聞いてくるのかはわからないけど、今の私は昨日いきなりそれを問われた時のように動揺したりはしなかった。
「ええ、好きよ。あいつという存在を余すとこなくね」
「っ、改めて聞くとやっぱり堪えるな――そこまできっぱりと答えられると何処か清々しささえ覚えるよ。それじゃあ、もうひとつだけ聞こう、霧生に対する君の想い――それは一体何から起因してるのかな?」
つまり城嶋君の話を要約すると、あいつを好きになるにいたった原因は何かということ?
「随分と抽象的なことを聞くのね、だけど残念、そんなことを聞かれても答えられない」
「何故だい?」
「だったら聞くけど城嶋君は今までした食事の回数を覚えている? 今まで取ってきた睡眠の回数を思い出せる? 今までに書いた文章を再び書き綴ることができる? 私は今日までの人生のほとんどをあいつと一緒に過ごしてきたの、つまりそういうことよ」
原因を答えられない原因は、多すぎるということ。
私が生きてきた十五年、自分で言うのはなんだけど、軽いものなどでは絶対にないと信じている。
そしてそれは、それによって作られた思い出は、あいつとの”絆”は絶対のものだと信じている。
故に私のこの思いは絶対に揺るがないと――信じている。
どうやら私の返答を聞いて城嶋君は、私の言いたいことを察したようだ。
しかも、予想通りとでも言いたげに振り返って来るくらい。
「っは、ははは、そうだ! 君たちには”思い出”という名の絶対的なアドバンテージがある。故に君たちの絆は固い! だからこそ間に割って入ることは不可能なんだ!」
だけど、不可解――なぜ彼はそれを聞いて笑っているのだろうか?
城嶋君は作業の手を止め立ち上がる。
「俺は考えた。それを砕くにはどうすればいい? 俺を君に見てもらうにはどうしたらいいのか、考えて、考えて、考えて考えて考えて! その結果一番に思いついたのがこれさ!」
城嶋君は意味ありげに足元を指差す。
「――水鳥さん、君は忘却魔法というものを知っているかな?」
はっきり言って知っている。
忘却魔法――それは読んで字のごとく、記憶を忘れさせる魔法だ。
誰だって、忘れてしまいたい過去の記憶というものを持ち合わせていることだろう。
かくいう私も、ふとした瞬間に急に過去の赤裸々な記憶を思い出し、頭を抱え、その場にのたうちまわりたくなることがたまにある。
……はずかしいことながら。
忘却魔法とは、そういったものを意図的に忘れるために作られた魔法だったと、私の頭は記憶していた。
そう、知識としての”忘却魔法”自体は頭にあるのだけれど、今までの話の流れから、そして城嶋君の指差したものの名前を聞いた瞬間、いやな予感が走った。
「――ぼう、きゃく魔法?」
「ああ、効果は読んで字のごとく、対象者の任意の記憶を忘れさせる一般魔法さ」
「っ!!? でも、でも! 一般魔法程度で私の記憶を消すなんて、そんなこと――」
「――できるわけがない、と、そう言いたいのかい? 確かに”通常の忘却魔法”なら不可能だ。だけどね、実は俺の持ってる”継続魔法”を併用すると、その限りではないんだよ」
それを聞いて、私の意識は一瞬遠のいた。
なんてこと、いやな予感は見事当たってしまった。できれば外れてほしかったのに……
それじゃあ、城嶋君が私にこんなことをしたのは――
「――ああ、どうやら察しがついたようだな。俺は君と霧生の、”思い出”という名の強固な絆を壊すために君たちを呼んだんだ。これから俺は君の持つ霧生との記憶を忘却させる」
――ああ、ここまで聞いてようやく私は全てを理解した。
――なぜ城嶋君がこんなことをしたのかも理解した。
――私を好いてくれている。その事実は実際少しだけうれしく思うけど。
――こんな、こんなのはない。
――こんなのは、絶対に道を外れている。
私が全との思い出を忘れる。
そんなことないと信じたい。
私たちのこれは絶対のものだと信じたい。
だけど、そう思い込もうとする反面、どうしても良くないことを考えてしまう。
そう思わせるのは得体の知れない城嶋君の魔法のせいだろう。
情けなく床に這いつくばりながら、それでも何とか視線だけを動かして再度城嶋君を見た。
端正だけど歪んだ城嶋君の顔が見えた。
「――忘却魔法、起動」
無慈悲な声が聞こえる。それに反応して私を囲むように床に魔方陣らしきものが淡い光を帯びて浮かびあがってきた。
光景だけを見るだけならば綺麗で幻想的。できれば違う機会に見たかった。
「――水鳥さん、俺は君を手に入れる」
私は自分の無力さに、ひどく泣きたくなった。