◆霧生家--SceneⅢ 帰ってこない幼馴染
「一葉ちゃんが帰ってきていない――だと?」
焦りを見せる一さんを目の前にして、父さんは今しがた一さんの口にした言葉を繰り返した。
表情に大きな変化はないものの、それは明らかに動揺を露わにした声色だった。
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全さんの部屋を後にして僕が真っ先に向かった先は、我が家の台所だった。
本当は自分の部屋に戻ろうとしていたのだけれど、あの優しい部屋から一歩を踏み出した瞬間、恥ずかしいことながら、まるでそれを待っていたかのように、僕のお腹の虫は空腹を訴え盛大に騒ぎ始めた。
とてもいい気分であったというのに……もう少し空気を読んで欲しいものだ、と、自分のお腹を摩りながら少しだけ呆れてしまったのはここだけの話。
だが、まあ、これが今のタイミングで騒ぎだしたのは他でもない――僕自身の自業自得所為だ。
今思い出しても、今朝の朝食はいつもより食べる事が出来なかったし、わざわざ母さんが、早起きして作ってくれたお弁当のほうも、半分と食べることが出来なかった。
理由は心身両方の不調――お昼の方は、忙しくて食べる時間があまりとれなかった、というのも理由の一つだったりするけれど……
さらに付け加えて今はこの時間帯、これでは空腹になるなという方が無理というものだ。
僕はそう自分の生理現象を肯定的に判断づけると、大きくうんうんと頷きながら、とりあえず何かを胃に収めようとその場を後にした。
ゆっくりとした歩調で階段を下りてゆく。
今日の晩御飯は何だろうか? と、そんな事を呑気に考えながら――
だけど、そうして階段を降り切ったその瞬間、来客を告げるチャイムの音が僕の鼓膜に飛び込んできた。
――こんな時間に誰だろう?
素朴な疑問を感じつつ、僕は台所という目的地とは正反対の玄関の方へと顔を向けた。
間取り的に、僕の家は玄関をはいってすぐの所に、二階へと続く階段がある。
つまり、玄関は丁度いいタイミングで僕の目の前だ。
そしてこれまた丁度いいタイミングであったらしい、僕が顔を向けたそのタイミングで玄関の扉は開かれた。
必要以上に勢い良く開いた扉の前には――
「そんなに慌ててどうしたんですか、一さん」
――随分と息を切らしたお隣さんの姿があった。
「っ!? おお、こんばんわ全君、いきなりで悪いが、うちの一葉はお邪魔してないかい?」
「え? いや、来てないと思いますけど――」
「そうか、それじゃあすまないけどちょっとお邪魔するよ!」
「え、ちょ、一さん!?」
そんなふうに一さんは、乱暴にサンダルを脱ぎ捨てると、それを揃えることもせず、僕の横を通り過ぎて行った。
明らかに礼を欠いたその言動は、いつもの一さんのそれではない。
「……何かあったのかな?」
僕は首をひねりつつそう呟きながら、とりあえず一さんの後を追う事にした。
幸いなことに、一さんが駆け込んでいったのは台所の方向、どちらにしろ丁度良い。
とまあ、そんな事を考えながら、台所へと行ってみたわけなのだけれども――
「――いいからとにかく手を貸してくれ! もし万が一にも何かがあったんなら、僕は!」
「お、おい一、とにかく落ち着け、一体何があったんだ?」
台所に顔を出してみれば、そこに広がるのは、激しく狼狽している一さんを、何とかして落ちつけようと奮起している父さんと、そんな二人の様子にオロオロしている母さんの姿。
突然に目の前に現れた混沌状態に、僕は言葉を失いその場に佇むくらいしかできなくなった。
だが、そんな僕の状態など関係ないとでも言うように、目の前の光景は進展してゆく。
「―― 一葉が帰ってこないんだ! 携帯に電話しても出やしない、おかしいだろ! 今日なんて遅くなるはずがないのに、どうしてなんだ!?」
父さんや母さんも一さんのその話を聞いた瞬間顔色を変えた。
そして同時に、立ちながら呆けていた僕自身も、一さんが何故これほど取り乱していたのかを理解する。
「確認しておくが冗談の類では――」
「――っ、冗談でこんな事言う訳ないだろ! 悠馬、いくらお前でも本気で怒るぞ!!」
「――っ!」
「……――すまん、失言だった」
怒鳴り声を上げる一さんに、謝る父さん。
一さんがどなった瞬間、僕は情けなくも身を竦めてしまった。
ここまで、喜怒哀楽の”怒”を明確に露わにした一さんを見るのは比喩では無く本当に初めてだった。
普段温厚で、怒ることすら滅多にないというのに……
だが、一さんという人間を良く知っている僕たちは、その理由を言われるまでもなく理解してしまう。
――不安で仕方がないのだろう、一さんにしてみればこのような状況は、今回で”二度目”のはずだから。
そもそも、彼が何故これほどまでに動揺しているのか――
普通がどうなのかは知らないが、大事な一人娘が連絡もなく定時過ぎても帰ってこないとなれば、そりゃあ心配もすることだろう。
それでも、彼を知らない人からすれば、この人のこの取乱し方は少々過保護に映るのかも知れない。
けれど、それにはそれで彼固有の理由があるのだ。
その理由は、水鳥家の家族構成が、父と娘の二人だけという時点で、なんとなく分かってもらえるかも知れない。
交通事故だったらしい――買い物に出掛けた琴葉叔母さんを襲った悲劇が――だ。
らしいというのは僕自身当時のことを殆ど覚えていないから、つまり、僕の物心が付くかつかないかギリギリの頃の話なのだろう。
僕がこの話を知るきっかけになったのも些細なことだった。
僕たちの中学校では基本的に携帯電話の持ち込みは禁止されている。
にもかかわらず、一葉ちゃんは、先生たちにばれない様に携帯電話を持ち歩いていた。
といっても、メールやアプリといったコンテンツを常時利用したいからというような理由ではない――というか出来ない。
――その、なんというか……一葉ちゃんはちょっと、いや、かなり機械類の扱いが苦手だったりする。
でも、そんな一葉ちゃんでも、携帯電話の通話の仕方だけは一生懸命努力して覚えていた。
そして一葉ちゃんは僕と、あのゲームをするとき、ううん、帰りが遅くなるときは必ずそれで一さんへと連絡を取るのだ。
何故そこまでするのかと純粋に疑問をぶつけてみれば、若干の苦笑いを浮かべる一葉ちゃん。
一葉ちゃん曰く、お父さんに”余計な心配をかけたくないから”らしい。
そして僕は琴葉叔母さんのことを知るに至った訳である――
つまり、一さんがこれほど動揺しているのは琴葉叔母さんの時と、今の状況を無意識に重ね合わせてしまっているのだ。
子供の僕でさえそれが分かるのだから、それこそ僕以上に付き合いの長い父さんと母さんに関しては、ことの重大さにいち早く気が付くのは当然の帰着。
故に、呆然としていた僕を尻目に、迅速といっていいほどの動き出しを開始し始めていた。
「――とにかく探してみよう、俺も一緒に探してやるから、だからしっかりしろ、一、もしかしたら何事もなく帰ってくるかも知れないからな」
「あ、ああ、そ、そうだな……」
「とりあえず近辺から探してみよう、俺は商店街の方を見に行ってみるから、お前は海のほうだ、それでだめなら学校付近にも行ってみよう――」
話を進める父さんと一さん、そんな二人の様子を目にし、僕の頭はようやく現状を理解したようだ。
一葉ちゃん帰ってこない、その事実に僕の心はギュウ締め付けられた気がした。
一葉ちゃんの身に何かがあったのかも知れない、そんな不安が一気に襲ってきた。
彼女は一体どうしたのだろうか――保健室で”最後にあったときは”別段変わった様子はなかったと思うけど――……
…………――――?
……なんだろう、何かが引っ掛かる。
喉に魚の小骨が引っ掛かる様な、そんな何ともいい難い違和感。
そういえば、この中で一番最後に、一葉ちゃんと別れたのは間違いなく僕だ。
最後に一葉ちゃんに会ったとき、僕は彼女に何か頼みごとをしてはいなかっただろうか?
何か、嫌な予感がする――
そうだ、一葉ちゃんに言伝を頼んだんだった。
そう、あの時保健室に現れた城嶋さんへの言伝を――
つまり僕が一葉ちゃんを学校へと留まらせた訳だ。
学校に留まらせたのは僕の所為。
そういえば、あの時保健室に現れた城嶋さんは、どこか様子がおかしくはなかっただろうか?
こんなふうに人を疑う様な事はしたくないけれど――どういう訳かあの時の光景ばかりが鮮明に脳裏に浮かんできた。
どうしてあの時の、声高らかな彼の無機質な嗤いを思い出すのだろうか?
心臓が五月蠅い位に鳴り響いているのが分かる――
おかしかった城嶋さん――
笑って僕の頼みを聞いてくれた一葉ちゃん――
一葉ちゃんに最後に会ったであろう人は城嶋さん――
でも城嶋さんの様子はおかしくて――
一葉ちゃんは教室で、その城嶋さんに会っていて――
一葉ちゃんは帰ってきていなくて――
そんな一葉ちゃんに、頼みごとをしてしまったのは、僕――
もしかして、一葉ちゃんが帰ってこないのは――――僕の所為?
そこまで考えて、またしても僕の心はギュウっと痛くなった。
こんな事は考えてくないのに――でも考えてしまう。
どうしていいのかわからない、分からないけど、じっとしてもいられなくなった。
「――よし、それじゃあ俺達はちょっと出かけてくる。浅海と全は家にいてくれ、一葉ちゃんが帰ってきたら俺達に連絡するんだ。いいな?」
父さんと一さんは今にも玄関を飛び出していきそうなところだった。
僕はギュッと手のひらを握りしめ、そんな二人に向きなおる。
「――父さん! 僕も――僕も一緒に探すよ!!」
そんな僕の言葉に、父さんは少しだけ驚いたように振り返った。
「……全、お前は此処にいろ、さっき玖珂に言われたばかりだろ、余り動き回らない方がいい」
それを言われると、とても反論しづらいものがあった。
確かに先ほど、玖珂さんから治療を施してもらった最後、念を押すように言われた事がある。
――最低でも今日一日は派手な運動は控えるように、唯でさえお前の骨格は出来あがっていないんだ、此処で無理すれば最悪元に戻っちまうぞ! って。
でも、だとしても――このままじっとしていられないのは事実。
「そうだけど、でも、僕は――」
父さんに向かって”何か”を言おうと口を開く。
しかしながら、僕は何も口にすることが出来なかった。
必死になって考えて、でもうまく言葉にまとめることが出来ない。
じっとしていられないから僕も探しに行きたい、たったそれだけ言えばいいのに。
たったそれだけのことが、言葉にすることが出来なかった。
実際僕は、自分で思っている以上に錯乱しているようだ。
そんな僕を、父さんは、静かにジッと見つめ返してきた。
言葉に出来ないならばせめて、そんな事を考えながら、僕は真っ直ぐ父さんを見つめ返す――
「……わかった、それならお前は学校を見てこい、一葉ちゃんを見つけたら家に連絡するんだ――絶対に無理するなよ」
「っ?! うん!!」
僕は捜索の許可が出たことが嬉しくて、精一杯の返事を返した。
父さんはそんな僕を見ながら一度頷いて見せ、一さんとともに今度こそ家を飛び出していく。
そして、僕もそれに続くかのように我が家を後にした。
途中、勢い余って我が家の靴箱に手の甲をぶつけてしまったが、構わず玄関を飛び出す。
ジンジンと痛む手の甲を誤魔化すように手のひらを強く握りしめ、僕は学校へと向けて勢いよく地面を蹴り出した。