◆九月十三日 午後七時二十分――霧生家--SceneⅠ 執念と優しさ
家に帰ってきた。父さんの後に続くようにして馴染みの玄関をくぐれば、奥から母さんの声が聞こえて来た。
流石に玄関まで出迎えて来る事はないが、確かに「お帰りなさい」と――母さんにしてはやけにたおやかな響きの音質。
その声に、僕と父さんはそろって「ただいま」を返しながら、そしてそろって靴を脱ぐ。
そうしていると、僕より若干早く靴を脱ぎ終えた父さんが僕に向きなおってきた。
「俺は先に浅海と話をしてくる。直ぐに行くから先に部屋に行ってなさい」
そう言って父さんは僕に向かって右手を差し出した。開いたその手のひらの中には鍵がひとつ。
僕が頷きながらそれを受け取ると、父さんは踵を返し、家の奥へと姿を消した。
僕は今しがた受け取った鍵へと視線を落としてみる。
渡されたのは小さな鍵だった。
家の玄関の鍵や自動車の鍵と比べると二回りは小さいであろうそれ――その大きさから察するに、南京錠か何かの鍵なのだろう。
所々が手垢と錆で汚れていて、随分と年代を感じさせる、そんな鍵。
「どこの鍵だろ? これ」
僕は誰にも聞こえないような大きさで呟いた。
しかしながら、呟いた次の瞬間には、自然とその呟きの疑問の答えは、僕の中に浮かび上がってきていた。
――考えるまでもないことだった。家の中で”鍵がかかっている部屋”なんてあそこしかない。
僕は脱いだ靴を揃えると、玄関そばに位置する階段をゆっくりと登ってゆく。
目的の部屋は二階の突き当り。そこは、昨夜”あの事実”を告げられた部屋だった。
向かう途中に自分の部屋に鞄を置いて、そして、向き直った。
その部屋の扉は、ドアノブの少し下のことろを蝶番と南京錠によって施錠されている。
この鍵から見ても想像できるが、おそらく元々この部屋の扉には、施錠のための鍵などついていなかったのだろう。
今まで疑問にも思わなかったけど、部屋の”外側”から”後付け”されたこれは往々にそういうものだ。
僕は手のひらの中で転がしていた鍵を南京錠へと使ってみる。
――予想は当たっていたらしい、錆のせいか少しだけ開け辛い鍵ではあったか、小さくカチリと施錠は解除された。
蝶番を外し、ドアを開ける――僕を出迎える真っ暗な部屋。
僕は咄嗟にドア付近の壁を弄り部屋の電気をつけた。
この部屋に踏み入るのはこれで二度目。
僕は二度目にして初めて部屋の全容を見渡した。
部屋の広さは六畳半の僕の部屋と大体同じくらい。
壁掛け時計、勉強机に大きめの本棚、そして寝台。
小奇麗に設置されているそれらの家具は皆一様に古めかしさを覚えた。
――その部屋を見て僕は一つの疑問を覚えた。
おかしいのは”スッキリし過ぎている”ということ。
僕は父さんからのこの部屋は”物置”だと聞いていたのだ。
物置なのだから、当然要らなくなったものや当面使う機会のないもので溢れているとばかり思っていたのに、僕のその予想とこの部屋はまるでかけ離れている。
置かれている家具は確かに古くあるけど、これでは物置じゃなく、まるで誰かの――”部屋”みたいだった。
「――ここはな、兄さんの部屋だったんだよ」
その声はまるで僕の疑問に答えるかのよう。
我に返って振り返れば、父さんが何時もの仏頂面でもって、僕を見下ろしていた。
「――兄さん?」
「ああ、初めは俺と兄さん二人でひと部屋を与えられていたんだが、兄さんの十五の誕生日を機にそれぞれ別々の部屋を貰った。別に兄さんのことは嫌いでは無かったが、それでも酷く嬉しかったのを覚えているよ」
父さんは懐かしそうに目を細めた。
そんな父さんはこころなし微笑んでいるようにも見えた。
「……父さん」
そして、僕はそんな父さんに対しあの疑問をぶつけてみる。
「父さんは、なぜ僕を玖珂さんの所に連れて行ったの? 僕はこんななのに……」
僕は死んでしまうというのに、何故僕の不調を直そうとしてくれるのか。
あの時頭を下げた父さんに直接聞いてみた。
「……全、自分のことをこんななんて言うもんじゃない――お前は、お前が思っている以上に立派に育っているよ。それこそ俺達の望む以上にな」
返ってきた答えは僕の想像していたものとは違っていた。
「ただ一つ、難点があるとすれば――我慢強すぎるところか? まったく、早起きはつらいだろうに」
「っ!?」
思わず僕は身を固くした。
バレていたのだ――僕が毎朝行っていた所業は。
そうして押し黙る僕に対して、父さんは一拍の間を開けた後ゆっくりと言葉を続けた。
「……なあ全、昨日お前に話した事だが――気にする必要はない、むしろ忘れてしまえ」
「父さん……?」
一体行き成り何を言い出すのか、僕には父さんの言いたいことがよく分からなかった。
だが父さんの瞳は真っ直ぐ僕を捉えていた。
――そこに宿っているのは強く真っ直ぐな光。
「これから先どうするか、それはお前が決めるんだ。今までがどうだったかなど関係はない、俺の都合に、大人の都合に振り回される必要もない」
父さんは一体何を言っているのか、あのような事を言っておいて今日はいきなり忘れてしまえ? 振り回される必要はない?
……――そんな事出来る筈がないのに!!
「なにを、いきなり何無責任な事を言っているのさ!! 気にするよ! 気になるよ! 忘れることなんてできないよ!! 僕にはもう分からないよ……僕に死ねっていったのは父さんじゃないか、死ぬのが決まってるのに一体他に何を決めろっていうのさ!!」
叫んだのは随分久し振りのことだった。もう限界だった。
分からない、わからない、ワカラナイ――
父さんは一体僕に何を望んでいるというのか?
「―― 一つ訂正しろ、誰がお前に死んでほしいなどと言った?」
気がつけば父さんは静かに怒っていた。
「言える訳がないだろう、お前は俺達の宝だ。そんなお前に言える訳がない。そうさ、言える訳がないんだ。あの人にもそう言ってやりたかったのにな――」
父さんは悔しそうに僕から視線を外し、代わりに部屋の中の机へと視線を向けた。
そこで僕はじハッとなった。そういえば父さんは”二度目”だったんだ。
ここは、父さんの兄さんの部屋、七代目、”霧生 全”の部屋なのだ――
「――ねえ父さん、父さんの時はどんな感じだったの? 全さんは一体どんな感じだったの?」
言葉に出して、ひどく違和感を覚えた。それは恐らく自分と同じ名前だからなのだろう。
でも、いや、だからこそ、この部屋の主だった人は、僕と同じことを告げられどうしたのかが酷く気になった。
「兄さんか? 兄さんはな、兄さんのままだったよ」
「兄さんのまま?」
「ああ、全く変わらなかった。確かに今思えば兄さんは十五の誕生日以降から随分と忙しくなったがな、それでも俺の目から見れば何にも変わらなかった――強い人だったってことなんだろう」
そう言って父さんは僕の横を通り、部屋に備え付けられている本棚へと向かい、そこから一冊の本を取り出し僕へと差し出してきた。
差し出されたのは一冊の大学ノートだった。授業で使うのよりもだいぶ厚い、百ページ詰めの大学ノート。
随分と使い古され古ぼけたノートではあったが、その表紙にはこう一行――
『継続魔法解呪法 No12』
僕はそれを見た瞬間、父さんの手から奪い取るように強引にむしり取った。
慌てて中を開いてみればノートのページはどのページも細かい字で真黒だった。
魔法陣に魔法文字、そしてそれらの解釈がかかれた日本語。お世辞にも綺麗な字とは言えないし、意味など殆ど分からない。
でも、一つだけ分かることもある。
伝わってくるのだ。
絶対に死んでなどやるものかという、運命に逆らわんとする強い意志が――
「――あの人はな、生きることを諦めてはいなかったんだ。……でも俺はそれに気が付く事が出来なかった。これに気がついたのも兄さんの遺品を整理している時だったよ」
気がつけば父さんは悔しそうに顔をしかめ、同時に手のひらを握りしめていた。
「……後悔してるの? 全さんのこと」
「……ああ、後悔している。俺自身の馬鹿さ加減に、な」
「…………」
父さんは僕の方を向いて背を伸ばした。
そしてその目が再び僕へと向く。
「俺は全てを知った上で、俺の判断で動くべきだった。だが、俺は知らなかった。知らずに目の前だけ――目に映る事だけを真実だと思い込んでいた」
――もしかしたら、見つめているのは他の何かかも知れない。
しかしながら、僕を通して何を見ているのかはやっぱり僕にはわからなかった。
「俺の失敗はそれさ。兄さんを助けてやれなかったこともそうだが、一番は、全ての選択肢を知らずにいたことだ。だからお前にはそうなって欲しくはないんだ。……たとえそれで同じ答えに行きつくとしても、な」
そして父さんは微笑んだ。日ごろあまり見せない温かみのある表情。
兄さんのことを知っても、やはり現実は変わらなかったかもしれないが、と、僕には父さんの言葉はそう聞こえたような気がした。
「ともかく先ほども言ったが、この先どうするか、それはお前が決めろ。その過程でお前を脅かすものがあるならば、俺たち大人が力ずくで排除してやる。お前がお前自身の“答え”を得るまで、いや、”答え”を得た後も絶対に俺たち大人が守ってやるし、全力で手を貸してやる。お前も、お前の大切なものにも」
「でも、そんな事をしたら父さんたちが大変だよ」
「――全、俺たちがお前の親だってことを忘れているぞ。こんな状況だからこそ、親らしいことをさせてくれ。俺達は、お前がお前らしく生きることを決して止めたりはしない」
そして父さんは苦笑した。
「そして願わくば、兄さんのように運命に抗ってくれることを、祈っているよ」
そう言って父さんは僕の頭を優しく撫でてくれた。