◆九月十三日 午後五時十分――室月中学校 保健室--SceneⅠ 先の見えない恐怖
暗い、くらい、クライ――
気がつけば僕はたった一人、暗闇の中を”たゆたって”いた。
いや、気が付くという表現は正しいのか、それすらも分からない。
体は動かせず、声もだせず、思考は纏まりを見せない。そんな状態で、意識だけが朦朧と何も見えない暗闇の中にぽつりとあるだけなのだ。
もしかしたら本当に意識だけが切り離されて、どこかしらない場所に放り出されているのかもしれない。
圧倒的質量の土塊の中か――光届かぬ深海の底か――はたまた宇宙の彼方かもしれない――
まあ、何れであろうと結局何も変わりはしないのだろう。
もがくこともできず、呻くこともできず、ただ有るがまま、流されるまま、僕はここにある。
そう、”たゆたう”とは、そういうことだ。
……ああ、僕はなんてちっぽけで、なんて無力なんだろう。
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ギチギチ、と慣れ親しんだ軋りを感じ、瞼をゆっくりと押し上げてみれば、明かりのついてない蛍光灯と、見慣れた天井が網膜に飛び込んできた。
目が覚めたばかりで頭が上手く回ってくれないせいか、その光景が一体如何なる場所のものなのか、すぐには思い出せない。
そうやってぼーっとしていると、柔らかい風の流れを頬に感じた。
ふと、僕は風の流れの辿るように顔だけを横に向けてみる。
窓が開いていた。風の流れはこれが原因かと密かに納得しながら、ついでに窓の外の風景を眺めてみる。
数台の自動車が止まっている。石碑が見える。飾り付けら得た正門が見える。
その光景を目にし、僕はようやく此処がどこなのかを判断することができた。
「ああ、なんだ――保健室か」
保健室――昨年、『自律神経失調症』の最も酷い時期に僕が何度もお世話になった場所。
――天井が見慣れているのはそのせいだ。
判断できたが、とりあえず声に出して状況確認。
そして声にすると同時にどうして自分がこの場所のいるのかを、徐々に徐々に思い出そうとする。
ゴールしてクラスの皆が駆け寄ってきたところまでは覚えているけれど、そこまでだ。
突然目の前が真っ暗になってそれっきり、どうなったかを覚えていないと言う事は、僕が意識を繋ぎとめられていたのはそこまでと言う事。
幸い、と言うべきなのか。とりあえず気を失う前に比べると体調はそれなりに良くなっていた。
意識を失ったおかげで、昨日より不休だった体が少しだけ休まったせいだろう。
今だから思う事だけど、やっぱり最後のあれは無茶だったきがする。
そして、今僕はここにいる――
「――……保健室か」
意味などないが、なんともなしにもう一度その名を口にしてみる。
ここのお世話になるのは随分と久し振りのことだ――少なくとも三年生となってからは、一度たりともお世話になった覚えはない。
だというのに、先ほど目を覚ました直後に浮かんできた感情、”見慣れた天井”だと感じたその感覚がひどく嫌になる。
「もうこの場所のお世話にはならないって――決めてたのにな……」
それは僕の中のささやかな、けれど確かな”誓い”だった。
僕の患う『自律神経失調症』は、僕にとっては厄介きわまりないものだ。
朝起きるたびに頭痛は酷いし、吐き気だって酷い。
思い通りになってくれない自分の体調に、何度鬱になりかけたか分からない。
そんな僕の姿を目にした母さんが、何を想って密かに泣いていたのかも分からない。
でも、僕は、そんな僕自身が嫌で嫌で仕方なかった。
この時ほど変わりたいと強く思ったことはない。
そう、変われるならば毎日早起きをして『自律神経失調症』の症状を抑える事も、人のために何かをする事も、それほど苦にはならなかった。
目に見えての変わってゆくことはなかったけど――少しづつでも自分がマシになれている。そう想えるだけで、僕にとっては救いだったのに――
――結局僕はまた、この場所のお世話になっている。
「は、はは、あははははははははははは!!!」
僕にはもう、笑うほかなかった。
――弱い。
霧生 全という男は、どうしてこんなにも弱く脆いのか。
名前はこんなにも大それているというのに、当の本人は、不都合という名の風が吹くたびにゆらゆらと大騒動。
今がまさにそうだ。
立ち上がれたと想ったのに――
変われたと想ったのに――
ようやく耐える術を見つけたと想ったのに――
結局、ちょっと違う方向から風が吹いてきた途端、このありさまだ。
情けなくて涙が出てきた。
……――どうしてだ? どうしてこうなる?
まっすぐ立っていることが何故出来ない!?
やれるはずじゃなかったのか?
そもそも、いったい何をやっているんだ、僕は……?
僕は乾いた笑い声を上げながら、その実必死に両目を両手の掌で覆い隠し、そのままベットの上にいた。