◆室月中学校 校庭--SceneⅡ 内なる慟哭
”痛み”を消して、思いっきり走る。
スタートダッシュは上々、むしろ今まで練習してきた中で一番の飛び出しだったように思える。
体調は最悪だというのにこの結果は何と皮肉なことだろう……
まあ、そのおかげで当初に存在していた二番手との体半分の差はほぼゼロとなり、横並びの状態となっていた。
しかし、まだまだ満足していい結果では無い、故に僕は隣の人ではなく、一瞬先にスタートした城嶋さんの背中を一瞥した。
目算で約四メートル、スタートの違いは一秒にも満たないものだったが、それでもこれだけの差が生まれてしまう。
しかも追いかける相手は城嶋さんだ。そう考えるとこの四メートルという間隔が決して縮めることのできない絶対なもののように思えてきてしまう。
普通に走っていては、恐らく差を詰めることは無理だろう。
僕はそんな事を考えながら、さらに速く駆けるために足のスライドを広げ、同時に回転を上げた。
イメージとしては、自転車の変速のためのギアを入れ替える感じ。
瞬発力重視の走り方から――速度重視の走り方へ。
そして、それと同時に腕の振り方、地面を蹴る出す際の力の入れ具合、筋肉の使い方等を意識しながら、僕の出すことができるトップスピードを可能にさせる。
自分の体の状態を掌握することに慣れている僕ならではの走り方。
痛覚を遮断することによって、”痛み”という仮初の限界では無く、文字通り”肉体の限界”を判断しての最加速だ。
それによって隣から聞こえていた息づかいは、僅かにだが後方へと遠ざかり、その代わり城嶋さんの背中が微か、大きくなるのを僕の目は捉えた。
それと同時、視界の外から沸き立つ――――複数の”頑張れ”が扇情的に聞こえてきた。
スタートから約四十メートル地点を走り抜ける――城嶋さんとの差は目算で三メートル半、トラックのコーナーに差し掛かった。
それに合わせて、左コーナーなので左に身体を僅かに傾け、右の腕の振りを気持ち大きめに振りながら走る。
直線を走るのに比べ走りづらい。
体が――ミシミシ――ギチギチ――不快な悲鳴を上げ出した。
「――――ッッ!!」
”痛覚遮断”せいで、いや、おかげで走ることに支障はないが、それでも体の壊れる音に言いようのない恐怖を感じる。
そのせいで何時も聞いている筈の音は、いつも以上に不快な音のように聞こえた。
前はそれほど気にならなかったというのに――――
僕は、奥歯を噛みしめながら必死に走った。
幸い、城嶋さんはそれほどコーナーの走りが得意ではないらしい、彼との距離が目に見えて縮まってゆくのが分かる。
コーナーを抜けた。城嶋さんとの差は二メートルを切るくらい、残されるは後百メートルほど。
息がきれて来た。喉からヒューヒューと乾いた響きが漏れている。
後半分、まだ半分、それに加えて城嶋さんとの距離も半分……追いつくことなど出来るだろうか?
だが、僕が不安にかられたその瞬間、更に絶望的な光景を垣間見る。
僅か、ほんの僅かだが、前を走る城嶋さんの歩幅が伸びたのだ。
単純に考えて歩幅が広がるという事は、それだけ進む距離が延び、つまりは速くなるという事。
今まで手を抜いていたのか、それとも始めから後半に勝負をかけるつもりだったのか……とにかくなんとかしなければならない。
かといって、僕と城嶋さんでは三十センチ近く身長が違い、それに伴い足の長さも違っている。
彼と同じようにスライドを伸ばしたところで、如何にかなるものではないだろう、第一、今現在が既に僕の限界の歩幅だった。
スライドは伸ばせない、それならどうしたらいいか――――
――僕はなけなしの覚悟を振りしぼり、足の”回転”をねじあげた。
――――ギチリッ――――
「――~~っ!!」
膝が今までで一番酷い音を発した。
痛覚がない為痛くはないが、その不快感に叫びそうになる。
でも、走るのは止めなかった。
城嶋さんとの差が再び縮まりだした。その光景に外野がうるさい位に騒ぎ立てていた。
先ほどよりも”大きな”、それでいて先ほどよりも”遠い””頑張れ”が聞こえた。
ゴールまでは後四十メートルほど、城嶋さんとの差は一メートルを切っていた。
だけど、城嶋さんとの一メートルが限りなく遠い気がした。
もう止まってしまいたかった。もうこれ以上不快な音を聴きたくなかった。
でも……とまることは僕には出来なかった。
”頑張れ”が聞こえる――
修司君の”頼む”が、僕の耳に残っている――
――なら、とまれるはずがない。
とうに息など切れている――身体は気持ち悪い位に軋んでいる――
…………
……――思わず笑ってしまった。
息が上がっている?
身体が軋んでいる?
それがどうしたというんだ?
――そうだ僕は死ぬんだ。だったらそんな事に気を使う必要になんてあるのか?
……――必要なんてある筈がないじゃないか。
――僕は、構わうことなく、さらに足の回転を押し上げた。
――――ビキリッ――――
「――――グ、ギ■ッ!!」
乾いたような響きが聞こえた気がした、まるでナニカに罅でも入ったかのような――そんな音、思わず口から変なうめき声を零してしまった。
目じりから湿った何かが頬を滑り落ちてくる。どうやら言葉と一緒に他にも零してしまったモノがあるらしい。
だけど、それを気にしている余裕など、にはありはしなかった。
城嶋さんと横並びになった。
――ゴールテープはすでに目前。
力を振り絞り、僕はそれへと飛び込んだ。
――瞬間、大歓声、大喝采が沸き起こる。
僕は、スピードを押し殺しながらゆっくりと止まってゆく。
ゴールテープを切れたかどうかは、痛覚を遮断しているせいでよく分からなかった。
だけどそんな僕の元へ、なにやら歓声を上げながら近寄ってくるクラスメイトの姿。
「流石霧生、でかした!」
「最後の凄げえな、俺感動した!」
「全君すごーい!」
掛けられた言葉はどれもこれもが僕を褒めるもの、無我夢中で気がつかなかったが、どうやらそういうことらしい。
そして、僕が確認できたのはそこまでだった。
瞬間、グラリと傾く僕の視線。
昨夜感じたのと同じ浮遊間、いや、昨日よりも酷かった。
未だ痛覚を繋げていないのに、これだけの反動があったことは今までにない。やはり最後のは相当無茶だったのだろう。
だが、今さら悔やんだところでそれはすでに後の祭りだ。
傾いた視線には急速に地面が近づき、衝突する直前僕の目の前は真っ暗になった。